寂寞《ひっそり》して、空屋かと思えば、蜘蛛《くも》の巣を引くような糸車の音が何家《どこ》ともなく戸外《おもて》へ漏れる。路傍《みちばた》に石の古井筒があるが、欠目に青苔《あおごけ》の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥《はしゃ》いで、流《ながし》も乾《から》びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸《うめ》くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴《せきどめあめ》と黒く書いた広告《びら》の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗《まっくら》な隧道《トンネル》に樹立《こだち》が塞いで、炎のように光線《ひざし》が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳《そび》え立って峰から哄《どっ》と吹き下した。
かつ散る紅《くれない》、靡《なび》いたのは、夫人の褄《つま》と軒の鯛《たい》で、鯛は恵比寿《えびす》が引抱《ひっかか》えた処の絵を、色は褪《あ》せたが紺暖簾《こんのれん》に染めて掛けた、一軒(御染物処《おんそめものどころ》)があったのである。
廂《ひさし》から突出した物干棹《ものほしざお》に、薄汚れた紅《もみ》の切《きれ》が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥《ごみ》で埋《うま》った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋《あばらや》で、煤《すす》のふさふさと下った真黒《まっくろ》な潜戸《くぐりど》の上の壁に、何の禁厭《まじない》やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗《いぬ》の、前脚を立てた姿が、雨浸《あめじみ》に浮び出でて朦朧《もうろう》とお札の中に顕《あらわ》れて活《いけ》るがごとし。それでも鬼が来て覗《のぞ》くか、楽書で捏《でっ》ちたような雨戸の、節穴の下に柊《ひいらぎ》の枝が落ちていた……鬼も屈《かが》まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄《ものすご》い。
フト立留まって、この茅家《あばらや》を覗《なが》めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘《ひがさ》を袖の下へ横《よこた》えると、惜げもなく、髪で、件《くだん》の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前《みせさき》へ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家《おとなり》の屋《いえ》を借りたいんですが、」
「何でございますと、」
と、頓興《とんきょう》な女房の声がする。
「家賃は幾干《いくら》でしょうか。」
「ああ、貞造さんの家《うち》の事かね。」
余り思切った夫人の挙動《ふるまい》に、呆気《あっけ》に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
と言って、莞爾《にっこり》して、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家《うち》じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
さすがに夫人もこれは離れ業《わざ》であったと見え、目のふちが颯《さっ》となって、胸で呼吸《いき》をはずませる。
その燃ゆるような顔を凝《じっ》と見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行《ある》き出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし極《きまり》が悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻《さっき》拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷《うなず》いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行《ある》きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉《ひと》しく左右を見た。両側の伏屋《ふせや》の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗《いぬ》が……
貸小袖
十五
今来た郵便は、夫人の許《もと》へ、主人《あるじ》の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避《よ》けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然《きちん》と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
前へ
次へ
全107ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング