聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と堪《たま》りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾《ハンケチ》で半ば蔽《おお》いながら、茶店を境内へ衝《つっ》と出る。

       十三

 どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿《わらじばき》の親仁《おやじ》だの、日和下駄で尻端折《しりはしょ》り、高帽という壮佼《あにい》などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
 石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際|鮮麗《あざやか》で、青葉越に緋鯉《ひごい》の躍る池の水に、影も映りそうに彳《たたず》んだが、手巾《ハンケチ》を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、極《きま》りが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
 と澄ました顔で、洋傘《ひがさ》を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり[#「しっとり」に傍点]、中には、じめじめとするのさえある。……
 夫人はちょいと俯目《ふしめ》になって、軽《かろ》くその洋傘《ひがさ》を支《つ》いて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税|御供《おんとも》仕《つかまつ》りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気《のんき》でしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下《あなた》は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍《かに》して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女《もりっこ》めらが、貴女が手巾をお掉《ふ》りなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
 と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと囃《はや》して遁《に》げましたぜ。」
 ツンと横を向く、脊が屹《きっ》と高くなった。引《ひっ》かなぐって、その手巾をはたと地《つち》に擲《なげう》つや否や、裳《もすそ》を蹴《けっ》て、前途《むこう》へつかつか。
 その時義経少しも騒がず、落ちた菫《すみれ》色の絹に風が戦《そよ》いで、鳩の羽《は》はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂《たもと》に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向《うつむ》いたが、直ぐに大跨《おおまた》に夫人の後について、社《やしろ》の廻廊を曲った所で追着《おッつ》いた。
「夫人《おくさん》。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人《おくさん》、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可《いけな》い、不可い。」
 と口の裡《うち》で云って、歩行《ある》き歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更|独《ひとり》じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直《ね》は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住《すま》れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
 いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
 社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
 夫人はもとより口を開かぬ。
 やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
 大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破《やぶれ》から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「夫人《おくさん》、」
「…………」

       十四

 少時《しばらく》――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色《かおつき》でもないが、腕を拱《こまぬ》いた態《なり》で、夫人の一足後れに跟《つ》いて行《ゆ》く。
 裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように
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