美濃安八《みのあはち》の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中《ひなか》は学校へ出ても、別に仔細《しさい》は無かったろうに。
 さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室《となり》のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
 主税は、夫人が此室《ここ》を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿《たど》りつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
 と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯《じょうだん》を云ったものを。
「室数《まかず》は幾つばかりあれば可《よ》くって?」
「何です、何です。」
 余り唐突《だしぬけ》で解し兼ねる。
「貴下《あなた》のお借りなさろうというお家《うち》よ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
 夫人がした通りに、茶棚の傍《わき》の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑《にがわらい》をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背《せな》を凭《も》たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱《ひじ》も露《あらわ》に夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷《とまど》いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
 と振向いた顔の、花の色は、合歓《ねむ》の影。
「へへへへへ」
 と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金《うこん》木綿の風呂敷に、浴衣地が堆《うずたか》い。


     二人連

       十

 午後《ひるすぎ》、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧《きぬた》の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
 門際の流《ながれ》に臨むと、頃日《このごろ》の雨で、用水が水嵩《みずかさ》増して溢《あふ》るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼《あお》く飜《ひるがえ》って竜《りょう》の躍るがごとく、茂《しげり》の下《もと》を流るるさえあるに、大空から賤機山《しずはたやま》の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘《かさ》をすぼめた。
 と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡《なび》くように見えたのは、羽織なしの一枚|袷《あわせ》という扮装《でたち》のせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳《よ》く、よく似合う。ただし媚《なまめか》しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
 セルで足袋を穿《は》いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸《やしき》を出掛《でが》けに着換えたが、膚《はだ》に、緋《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》。
 二人の児《こ》の母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一《おなじ》軍人好みになりたがるが、垢《あか》抜けのした、意気の壮《さかん》な、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜《ぼけ》の花のように生暖《なまあたたか》なものではなく、雪の下もみじで凜《りん》とする。
 部屋で、先刻《さっき》これを着た時も、乳を圧《おさ》えて密《そっ》と袖を潜《くぐ》らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露《あらわ》にその長襦袢に水紅《とき》色の紐をぐるぐると巻いた形《なり》で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と莞爾々々《にこにこ》笑って、澄まして袷を掻取《かいと》って、襟を合わせて、ト背向《うしろむ》きに頸《うなじ》を捻《ね》じて、衣紋《えもん》つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒《かゆ》そうに天窓《あたま》を引掻《ひっか》いていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着《なでつ》けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
 と云うのを、聞かない振でさっさと引込《ひっこ》もうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆《したじめ》をしたばかりで、衝《つ》と寄って、ブラッシを引奪《ひったく》ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗《のぞ》き込むように瞳をためて顔を見た。
 胸の血汐《ちしお》の通うのが、波打って、風に戦《そよ》いで見ゆるばかり、撓《たわ》まぬ膚《はだえ》の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅《くれない》の色は褪《あ》せぬ。
 境内の桜の樹蔭《こかげ》に、静々、夫人の裳《もすそ》が留まると、早瀬が傍《かたわら》から向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お誂《あつら》え通り、皺《しわ》くちゃな赤毛布《あかげっと》が敷いてあって、水々し
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