い婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
と謹んで色には出ぬが、午飯《ひる》に一銚子《ひとちょうし》賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「咽喉《のど》が渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
茶店の婆さんというのが、式《かた》のごとく古ぼけて、ごほん、と咳《せ》くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人|子守女《もりっこ》に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
夫人が彳《たたず》んでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中《ふところ》から切立の手拭《てぬぐい》を出して、はたはたと毛布《けっと》を払って、
「さあ、どうぞ、」
笑って云うと、夫人は婆さんを背後《うしろ》にして、悠々と腰を下ろして、
「江戸児《えどっこ》は心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」
十一
「お止しなさいよ。先刻《さっき》もあんなものを食《あが》ってさ、お腹を悪くしますから。」
と低声《こごえ》でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐《なつか》しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯《ひる》の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込《かっこ》んだのを見て、その時は太《いた》く嬉しがった。
得てこれを嗜《たしな》むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜《くやし》いが不可《いけな》いそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘|宛《ずつ》でございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下《あなた》は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食《めしあが》れ。」
と前の床几《しょうぎ》に並べたのを、さらりと撒《ま》くと、颯《さっ》と音して、揃いも揃って雉子鳩《きじばと》が、神代《かみよ》に島の湧《わ》いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
早瀬はその数を算《かぞ》えながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧《ごろう》じまし、鳩の喜びますこと、沢山《たんと》奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
と合点《がってん》々々、ほたほた笑《えみ》をこぼしながら甘酒を釜から汲《く》む。
見る見るうち、輝く玄潮《くろしお》の退《ひ》いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟《とっさ》に寂寞《せきばく》とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢《うごめ》いて出た者がある。
鼻の下はさまででないが、ものの切尖《きっさき》に痩《や》せた頤《おとがい》から、耳の根へかけて胡麻塩髯《ごましおひげ》が栗の毬《いが》のように、すくすく、頬肉《ほおじし》がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺《しわ》は小さな天窓《あたま》を揉込《もみこ》んだごとく刻んで深い。色|蒼《あお》く垢《あか》じみて、筋で繋《つな》いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支《つ》いたが、さまで容子《ようす》の賤《いや》しくない落魄《おちぶれ》らしい、五十|近《ぢか》の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸《とじいと》の断《き》れた、寝ン寝子を今時分。
藁草履《わらぞうり》を引摺《ひきず》って、勢《いきおい》の無さは埃《ほこり》も得《え》立てず、地の底に滅入込《めりこ》むようにして、正面から辿《たど》って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎《うと》くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩《まばゆ》そうに細めた目に、あわれや、笑を湛《たた》えて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、貞《てい》さんか。」
と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹《きっ》となって鋭く見た。
が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「主《ぬし》あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
思いの他《ほか》、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児《こども》がいやいや[#「いやいや」に傍点]をすると同一《おなじ》に縮《すく》めた首を破れた寝ン寝子の襟に擦《こす》って、
「埒明《らちあ》かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除《
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