中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の病《やまい》を治すより、国の病を治したい、と云う大《おおき》な希望《のぞみ》の人ですからね。過年《いつか》、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様《とうさん》は、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
 惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに掲《の》ったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
 と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽《まご》ついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と気《け》もなく答える。
 別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、貴下《あなた》は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
 と、なぜか気競《きお》って云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も吐《つ》かずに、番茶を呷《あお》る。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
 夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛《まつげ》を裂いたように黒目勝なので睨《にら》むようにした。
「ちょいと、吃驚《びっくり》して。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
 と振返りざまに背後《うしろ》向きに肩を捻《ね》じて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動《みじろ》きに、下交《したがい》の褄《つま》が辷《すべ》った。
 そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、翳《かざ》すがごとく開いて見せたは……
「や! 読本《とくほん》を買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
「冷評《ひやか》しては不可《いけ》ませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」

       九

「あの、何?」
 と真《まこと》に打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「直《じ》き読めます、」
 と読本を受取って、片手で大掴《おおづか》みに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
 と衝《つ》と身を退《の》いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
 茶棚の傍《わき》の襖《ふすま》を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺《まりこあたり》の産らしい、十六七の婢《おさん》どんが、
「ふァい、奥様。」と訛《なま》って云う。
 聞いただけで、怜悧《りこう》な菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、厭《いや》な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代|衆《しゅ》でござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
 と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行《ゆ》きましょうよ。」
 衣紋《えもん》を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞《つくば》った婢《おんな》の髪を、袂で払って、もう居ない。
 トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
 はて心得ぬ、これだけの構《かまえ》に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが――後で知れた――留守中は、実家《さと》の抱《かかえ》車夫が夜|宿《とま》りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
 そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来《ゆきき》があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、
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