すな。」
 ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬《やままゆちりめん》の縞《しま》の羽織を引掛けて、帯の弛《ゆる》い、無造作な居住居《いずまい》は、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥《たんす》の前なる、鏡台の鏡の裏《うち》へ、その玉の頸《うなじ》に、後毛《おくれげ》のはらはらとあるのが通《かよ》って、新《あらた》に薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも籠《こも》ったか、主税が坐ると馥郁《ふくいく》たり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜《ゆうべ》は旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
 と火箸を圧《おさ》えたそうな白い手が、銅壺の湯気を除《よ》けて、ちらちらして、
「昨夜《ゆうべ》にも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有《ありがた》さが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可《いけ》ないから………」
 と莞爾《にっこり》笑って、瞥《ちらり》と見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前|雀羅《じゃくら》を張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で払《はたき》を持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下《あなた》も詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、可《い》い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
 あの、地方《いなか》の車だって疾《はや》いでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧《みじまい》をしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の処《とこ》へ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
 返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉《のど》を仰向け、胸を反《そ》らした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の直《じ》きこっちの大きな山葵《わさび》の看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山《たんと》喫《あが》って頂戴、お煙草。露西亜《ロシヤ》巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっとも喫《の》みませんから……」

       八

 それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を焙《ほう》じる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ沸《たぎ》らぬ、と銅壺から湯を掬《く》む柄杓《ひしゃく》の柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛《たわい》なく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透《みすか》した風情は、この夫人《ひと》の艶《えん》なるだけ、中指《なかざし》の鼈甲《べっこう》の斑《ふ》を、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄を投《ほう》り出した様子は、世帯《しょたい》の事には余り心を用いない、学生生活の俤《おもかげ》が残った。
 主税が、小児《こども》衆は、と尋ねると、二人とも乳母《ばあや》が連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知《しらせ》旁々《かたがた》、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句《もんく》は言わないまでも、苦い顔をして、髯《ひげ》の中から一睨《ひとにら》み睨むに違いはないんですもの、難有《ありがた》くないわ。母様《かあさん》は自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと経《た》つと帰って来ます。それまでは、私、実家《さと》へは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
 と火鉢の縁に肱《ひじ》をついて、男の顔を視《なが》めながら、魂の抜け出したような仇気《あどけ》ないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
 と主税がかえって心配らしく、
「彼方《むこう》から、誰方《どなた》かお来《いで》なさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。義兄《にいさん》(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日《このごろ》は、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠《とじこも》って、時々は、何よ、一日蔵の
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