に水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波《なごり》は争われぬ。土地の透明な光線には、(埃《ほこり》だらけな洋服を着換えた。)酒井先生の垢附《あかつき》を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴《ともえ》の紋着《もんつき》の羽織の中古《ちゅうぶる》なのさえ、艶があって折目が凜々《りり》しい。久留米か、薩摩か、紺絣《こんがすり》の単衣《ひとえもの》、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦《つた》が心懸けたものであろう。
 渠《かれ》は昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
 仰いで、浅間《せんげん》の森の流るるを見、俯《ふ》して、濠《ほり》の水の走るを見た。たちまち一朶《いちだ》紅《くれない》の雲あり、夢のごとく眼《まなこ》を遮る。合歓《ねむ》の花ぞ、と心着いて、流《ながれ》の音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸《のりかか》って、黒の大構《おおがまえ》の門に楫《かじ》が下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
 と門内へ駈け込んで、取附《とッつき》の格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を屈《かが》めて待つ。
 冠木門《かぶきもん》は、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
 男の児《こ》が先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が帽《ぼうし》を脱いで、雨《あま》あがりの松の傍《わき》を、緑の露に袖擦りながら、格子を潜《くぐ》って、土間へ入ると、天井には駕籠《かご》でも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
 と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、後《うしろ》の縁から射《さ》す明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、衣《きぬ》の色|朦朧《もうろう》と、俤《おもかげ》白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
 会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾《にっこり》して、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
 ちょいと車夫《わかいしゅ》に声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
 口早に促されて、急いで上る、主税は明《あかる》い外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附《ぶッつか》るのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
 と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌《さば》く裳《もすそ》の音。

       七

 市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌《あわただ》しさ、主税は足早に続く咄嗟《とっさ》で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日《きのう》汽車の中で、夫人を女|俳優《やくしゃ》だと、外人に揶揄《やゆ》一番した、ああ、祟《たたり》だ、と気が付いた。
 気が付いて、莞爾《かんじ》とした時、渠《かれ》の眼《まなこ》は口許《くちもと》に似ず鋭かった。
 ちょうどその横が十畳で、客室《きゃくま》らしい造《つくり》だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
 主税が猶予《ためら》うと、
「あら、座敷を覗《のぞ》いちゃ不可《いけ》ません、まだ散らかっているんですから、」
 と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白《かすり》の紺も鮮麗《あざやか》に、部屋へ入っている夫人が、どこから見透《みすか》したろうと驚いたその目の色まで、歴然《ありあり》と映っている。
 姿見の前に、長椅子《ソオフア》一脚、広縁だから、十分に余裕《ゆとり》がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉《おしろい》の類《たぐい》、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
 薄萌葱《うすもえぎ》の窓掛を、件《くだん》の長椅子《ソオフア》と雨戸の間《あい》へ引掛《ひっか》けて、幕が明いたように、絞った裙《すそ》が靡《なび》いている。車で見た合歓《ねむ》の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本《ふたもと》三本《みもと》を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
 地を坤軸《こんじく》から掘覆《ほりかえ》して、将棊倒《しょうぎだおし》に凭《よ》せかけたような、あらゆる峰を麓《ふもと》に抱《いだ》いて、折からの蒼空《あおぞら》に、雪なす袖を飜《ひるがえ》して、軽くその薄紅《うすくれない》の合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居《おすまい》でございま
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