ってならない処。夫が旅行で多日《しばらく》留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦《あるじ》ならなおの事、実家《さと》の手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目《めくら》の娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々《ほほ》と笑う。
この談話は、主税が立続けに巻煙草を燻《くゆ》らす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
椅子と椅子と間が真《まこと》に短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、裳《もすそ》は長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏《せった》の尖《さき》は爪立《つまた》つばかり。汽車の動揺《どよ》みに留南奇《とめき》が散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度《いくたび》も引かさね、引かさねするのであった。
主税はその盲目の娘《こ》と云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然《いきなり》客室の戸を開けようとして男の児《こ》が硝子扉《がらすど》に手をかけた時であった。――銀杏返《いちょうがえ》しに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、扉《と》を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布《ひふ》を着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込《ひっこ》めて、首を萎《すく》めて、ぐったりして、その年増の膝に凭《より》かかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の病《わる》い娘《こ》なのであった。
乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方《むこう》から見透《みえす》くのを、主税は何か憚《はば》かって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、太《いた》くお主《しゅう》の盲目《めしい》なのに同情したために、自然《おのず》から気が映ってなったらしく、女の児と同一《おなじ》ように目を瞑《ねむ》って、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向《さしうつむ》いて、いささかも室の外を窺《うかが》う気色《けしき》は無かったのである。
かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には太《いた》く倦《うん》じた体で、夫人は腕《かいな》を仰向けに窓に投げて、がっくり鬢《びん》を枕するごとく、果は腰帯の弛《ゆる》んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻《みまも》って、物打語るに疲れなかった。
草深辺
六
県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時《ひとしきり》は魔の所有《もの》に寂寞《ひっそり》する、草深町《くさぶかまち》は静岡の侍小路《さむらいこうじ》を、カラカラと挽《ひ》いて通る、一台、艶《つや》やかな幌《ほろ》に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込《けこ》み、友染の背《せなか》当てした、高台細骨の車があった。
あの、音《ね》の冴えた、軽い車の軋《きし》る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日《きのう》東京から帰った筈《はず》。それ、衣更《ころもが》えの姿を見よ、と小橋の上で留《とま》るやら、旦那を送り出して引込《ひっこん》だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶《はねつるべ》の手を休めるやら、女|連《づれ》が上も下も斉《ひと》しく見る目を聳《そばだ》てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角《あいかど》の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人《おくがた》に乗初《のりそ》めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物《かぶりもの》なしに駈けるのであった。
ものの半時ばかり経《た》つと、同じ腕車《くるま》は、通《とおり》の方から勢《いきおい》よく茶畑を走って、草深の町へ曳込《ひきこ》んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房《かみさん》などは、若竹座へ乗込んだ俳優《やくしゃ》だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立《ついたて》の蔭になって差覗《さしのぞ》いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演《す》るという新俳優の、あれは貫一に扮《な》る誰かだ、と立騒いだ。
主税がまた此地《こっち》へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放《なぎはな》しの頭髪《かみ》も洗ったよう
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