ありませんが。」
主税のこの挨拶は、真《まこと》に如才の無いもので。熟々《つくづく》視ればどこにか俤《おもかげ》が似通って、水晶と陶器《せと》とにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一《そっくり》であるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人《おんな》はないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜《かくし》から燐寸《マッチ》を出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火《ぼや》を見附けたほどの騒ぎ方で、
「煙草《たばこ》は不可《いか》んですな。」
「いや、これは。」主税は狼狽《うろた》えて、くるりと廻って、そそくさ扉《と》を開いて、隣の休憩室の唾壺《だこ》へ突込んで、喫《の》みさしを揉消《もみけ》して、太《いた》く恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許《てもと》へ呼んで、夫人は莞爾々々《にこにこ》笑いながら低声《こごえ》で何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来《ふでか》しを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初《はじめて》だ。」
と、半ば、独言《ひとりごと》を云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって江戸子《えどっこ》の名誉なんですわ。」
ボオイが剰銭《つり》を持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
傍《そば》へ来て腰を屈《かが》めて、慇懃《いんぎん》に小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
と今度は主税が火の附くように慌《あわただ》しく急《あせ》って云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金《きん》の鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
(女俳優《おんなやくしゃ》)と云いそうだったが、客が居たので、
「女形《おやま》にお任せなさいまし。」
とすらりと立った丈高う、半面を颯《さっ》と彩る、樺《かば》色の窓掛に、色彩|羅馬《ロオマ》の女神《じょしん》のごとく、愛神《キュピット》の手を片手で曳《ひ》いて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山《たんと》お煙草を召上れ。」
と見返りもしないで先に立って、件《くだん》の休憩室へ導いた。背《うしろ》に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳《そび》えて、主税は大跨《おおまた》に後に続いた。
窓の外は、裾野の紫雲英《げんげ》、高嶺《たかね》の雪、富士|皓《しろ》く、雨紫なり。
五
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留《とうりゅう》していたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲《あやめ》の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児《こども》の二年《ふたつ》姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分|実家《さと》の医院においても、治療に詮議《せんぎ》を尽したが、その効《かい》なく、一生の不幸になりそうな。断念《あきらめ》のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途《かえり》だと云う。
もとよりその女の児《こ》に取って、実家《さと》の祖父《おじい》さんは、当時の蘭医(昔取った杵《きね》づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目《めくら》の娘、(可哀相だわねえ、と客観《かっかん》的の口吻《くちぶり》だったが、)今更大学へ行ったって、所詮|効《かい》のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語《ことば》が交った。
夫がまた、随分自分には我儘《わがまま》をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶《つや》がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗《のぞ》いた。
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木《うもれぎ》のような心地《こころもち》で心細く
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