ま》って、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野《こうの》さん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
深く頷《うなず》き、
「はい、」
「あら、河野は私《わたくし》どもですわ。」
と無意識に小児《こども》の手を取って、卓子《テイブル》から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺《ゆる》ぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬|主税《ちから》と云うものです。」
と青年は衝《つ》と椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾《にっこり》する。
主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その女俳優《おんなやくしゃ》、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、家《うち》が気に入らない、と仰有《おっしゃ》って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、蒼《あお》くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時|更《あらた》めて、略式の会釈あり。
「私《わたくし》は英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人《おくさん》でいらっしゃいますか。……これはどうも。」
静岡県……某《なにがし》……校長、島山理学士の夫人|菅子《すがこ》、英吉がかつて、脱兎《だっと》のごとし、と評した美人《たおやめ》はこれであったか。
足|一度《ひとたび》静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間《せんげん》の森の咲耶姫《さくやひめ》に対した、草深の此花《このはな》や、実《げ》にこそ、と頷《うなず》かるる。河野一族随一の艶《えん》。その一門の富貴栄華は、一《いつ》にこの夫人に因って代表さるると称して可《い》い。
夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡《てんたん》、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯《へこおび》でも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する数《すう》か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……悉《ことごと》く夫人の手に受取られて、偏《ひとえ》にその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。
四
五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市《バザア》の相談をするのもある。飽かず、倦《う》まず、撓《たゆ》まないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家《さと》から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装《よそおい》をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝《おんぞがち》の着痩《きやせ》はしたが、玉の膚《はだえ》豊かにして、汗は紅《くれない》の露となろう、宜《むべ》なる哉《かな》、楊家《ようか》の女《じょ》、牛込南町における河野家の学問所、桐楊《とうよう》塾の楊の字は、菅子あって、択《えら》ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏《かさねうら》の上穿《うわばき》草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時《ひとしきり》物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の袂《たもと》に、大巌山《おおいわやま》の峰を蔽《おお》う、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から娶《めと》り得たと云う――新夫人の二人が、二つ巴《ともえ》の、巴川に渦を巻いて、お濠《ほり》の水の溢《あふ》るる勢《いきおい》。
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう筈《はず》が
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