りその端くれを、致しますのでございますよ。」
 さては理学士か何ぞである。
 貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
 雪踏《せった》をずらす音がして、柔《やわら》かな肱《ひじ》を、唐草の浮模様ある、卓子《テイブル》の蔽《おおい》に曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どう仕《つかまつ》りまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
 とちょいと天窓《あたま》を掻《か》いて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣《や》ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。貴郎《あなた》は、」
 と莞爾《にっこり》した流眄《ながしめ》の媚《なまめ》かしさ。熟《じっ》と見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子《がらす》越に顔の合ったのを、手招きして、
「珈琲《コオヒイ》を。」
「ああ、こちらへも。」
 と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地《あちら》の文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
 と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女《あなた》、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(日蝕《にっしょく》があるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕《かいきしょく》だ。)と云いましたが、まだ日本には、その風説《うわさ》がないようでございますね。
 有っても一向|心懸《こころがけ》のございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那《しな》だか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き懸《かけ》た処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
「御串戯《ごじょうだん》おっしゃっては不可《いけ》ません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
 と俯向《うつむ》いて、低声《こごえ》になり、
「女|俳優《やくしゃ》だ、と申しました。」
「まあ、」と清《すずし》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、屹《きっ》と睨《にら》むがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
「沢山《たんと》、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
 と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室《へや》が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「お湯《ぶう》。」
 と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。

       三

「静岡はどちらへお越しなさいます。」
 貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋《はたごや》へ厄介になりますつもりで。」
 もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
「貴女《あなた》、静岡は御住居《おすまい》でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎|俳優《やくしゃ》ですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下《あなた》、草深《くさぶか》と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊《まんまたき》の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
 と菫《すみれ》色の手巾《ハンケチ》で、口許を蔽《おお》うて笑ったが、前髪に隠れない、俯向《うつむ》いた眉の美しさよ。
 青年は少時《しばらく》黙って、うっかり巻莨《まきたばこ》を取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手《あいて》が外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、真《まこと》に失礼。」
 と真面目《まじめ》に謝罪《あや
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