ぼう》が動いた。
「直《じ》き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」
「だって、直《じき》だって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」
「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込《ひっこ》みます積りです。」
「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」
お妙は格子戸を出るまでは、仔細《しさい》らしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きを憚《はばか》るごとき、低い声ではなかったのが、ここで急に密《ひっそ》りして、
「あの、貴下《あなた》、父様《とうさん》に叱られて、内証の……奥さん、」
「ええ!」
「その方と別れたから、それで悲《かなし》くなって地方《いなか》へ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」
「…………」
「それならねえ、辛抱なさいよ。母様《かあさん》が、その方もお可哀相だから、可《い》い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が肯《き》いてくれますよ。」
「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙が溢《こぼ》れます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢が覚《さめ》ましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の越度《おちど》だけれど、掏摸《すり》と、どうしたの、こうしたの、という汚名を被《き》ては、人中へは出られません。
先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間に騒《さわが》しくなるばかりです。
卑怯なようですけれど、それよりは当分|地方《いなか》へ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、果敢《はか》ないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の停車場《ステイション》に着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんな懐《なつかし》い東京ですが、しばらく分れねばなりません。」
「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」
言《ことば》が途絶えると、音がした、釣瓶《つるべ》の雫《しずく》が落ちたのである。
差俯向《さしうつむ》くと、仄《ほの》かにお妙の足が白い。
「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな茅屋《あばらや》の軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、歓迎《ウェルカム》をしますから、貴娘《あなた》、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。
江尻も興津も直《じ》きそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺《すか》して云った。
「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんの許《とこ》へ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。口惜《くや》しいわ、攫徒《すり》の仲間だの、巾着切の同類だのって、貴郎《あなた》の事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ不可《いけな》いって、学校の名誉に障るって云うのよ。可《よ》うござんす、帰途《かえり》に直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点を減《ひ》かれるから。そうすると、お友達に負《まけ》るから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、(私も掏摸かい、見て頂戴。)と、貴下の二階に居て讐《かたき》を取ってやりたかったに、残念だわねえ。」
と擦寄って、
「地方《いなか》へ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩に凭《もた》れて、胸へ縋《すが》ったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を指環《ゆびわ》に接《つ》けた。
「忘れません。私は死んでも鬼になって。」
君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。
巣立の鷹
六十
「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」
十二時近い新橋|停車場《ステイション》の、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、め[#「め」に傍点]組の惣助。
手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。大《おおき》な支那革鞄《しなかばん》を横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の折革鞄《ポオトフォリオ》、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、伯林《ベルリン》の、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、瓢箪
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