しつつ居たのである。夫人も傍《そば》に。
 先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」

       五十八

 主税は心も闇《やみ》だったろう、覚束《おぼつか》なげな足取で、階子壇《はしごだん》をみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、一室《ひとま》越し袋の口を開いたような明《あかり》は射《さ》すが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。
 さすがは酒井が注意して――早瀬へ贐《はなむけ》、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく余所《よそ》へ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。
 酔ってはいないが、蹌踉《よろよろ》と、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は真暗《まっくら》な穴へ落ちた思《おもい》がして、がっくりとなって、諸膝《もろひざ》を支《つ》こうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで躊躇《ちゅうちょ》している内に、座を立たれては恐多い、と心を引立《ひった》てた腰を、自分で突飛ばすごとく、大跨《おおまた》に出合頭。
 颯《さっ》と開いた襖《ふすま》とともに、唐縮緬《めりんす》友染の不断帯、格子の銘仙《めいせん》の羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ年紀《とし》の長《た》けた姿。円い透硝子《すきがらす》の笠のかかった、背の高い竹台の洋燈《ランプ》を、杖に支《つ》く形に持って、母様《かあさん》の居室《いま》から、衝《つ》と立ちざまの容子《ようす》であった。
 お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に突伏《つっぷ》すがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の台擦《だいず》れに、肩を細うして指の尖《さき》を揃えて坐る、袂《たもと》が畳にさらりと敷く音。
 こんな慇懃《いんぎん》な挨拶をしたのは、二人とも二人には最初《はじめて》で。玄関の障子にほとんど裾の附着《くッつ》く処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。
 と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、燈火《ともしび》のうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらと揺《ゆら》めいた。
「もう帰るの?」
 と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の俤《おもかげ》は、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
 机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋《えもん》を気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒《うすらさむ》そうで風采《とりなり》も沈んだのに、唇が真黒《まっくろ》だったは、杜若《かきつばた》を描《か》く墨の、紫の雫《しずく》を含んだのであろう、艶《えん》に媚《なま》めかしく、且つ寂しく、翌日《あす》の朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を掠《かす》めてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌|宜《よ》う。」
「貴下も。」とただ一言、無量の情《なさけ》が籠ったのである。
 靴を穿《は》いて格子を出るのを、お妙は洋燈を背《せな》にして、框《かまち》の障子に掴《つか》まって、熟《じっ》と覗くように見送りながら、
「さようなら。」
 と勢《いきおい》よく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達《ともだち》と別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
 格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は拗《す》ねた状《さま》に顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく掌《たなそこ》で擦《こす》ったが、背《せな》を捻《よ》って、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方《あなた》の茶の間を覗くと、長火鉢の傍《わき》の釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中《おさん》の有様。
 ちょいと、風邪を引くよ、と先刻《さっき》から、隣座敷の机に恁《よ》っかかって絵を描《か》きながら、低声《こごえ》で気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
 お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが疾《はや》いか、身動《みじろ》ぎに端が解けた、しどけない扱帯《しごき》の紅《くれない》。

       五十九

「厭《いや》よ、主税さん、地方《いなか》へ行っては。」
 とお妙の手は、井戸端の梅に縋《すが》ったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、地方《いなか》へなんぞ行ってしまっては。」
 主税は四辺《あたり》を見たのであろう、闇《やみ》の青葉に帽子《
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