相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
時に襖《ふすま》に密《そ》と当った、柔《やわらか》な衣《きぬ》の気勢《けはい》があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳|二室《ふたま》で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口《あがりぐち》の六畳の方。
礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。私《わたくし》大願成就仕りましたような心持で。お庇《かげ》を持ちまして、痘痕《あばた》が栄えるでごわりまする。は、はは、」
道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。
五十六
望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏《まとま》ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨|稜々《りょうりょう》たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽《くすぐ》ったさに、礼之進は、日一日|歩行《あるき》廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下《あなた》の思召《おぼしめし》は。」
ちっとも猶予《ため》らわずに、
「私に言句《もんく》のあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児《こども》です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺《くく》めてやるような縁談ですから、否《いや》も応もあったもんじゃありません。」
と小刻《こきざみ》に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
道学先生、堪《たま》りかねて、手を握り、膝を揺《ゆす》って、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他《ほか》にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居《すまい》は飯田町ですが、」
と云う時、先生の肩がやや聳《そび》えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚《びっくり》する。
「掏摸《すり》一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
礼之進、苦り切った顔色《がんしょく》で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
道学者はアッと痘痕、目を円《つぶら》かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入《い》らん。先生が立処《たちどころ》に手を曳《ひ》いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可《いけな》い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
黙ってはいられない。
「しますると、その、」
と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚《はばか》ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一《ひとつ》家に我儘《わがまま》を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹《きょうだい》のようか、従兄妹《いとこ》のようか、それとも師弟のようか、主従《しゅうじゅう》のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人《おなこうど》、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それ
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