ど、」
 と云う口許《くちもと》こそふくらなりけれ。主税の背《せな》は、搾木《しめぎ》にかけて細ったのである。
 ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開《あ》いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯《き》かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨《おおまた》に歩行《ある》いて来て、
「早瀬さん、先生が、」
 二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
 と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後《うしろ》へ廻って、足駄|穿《は》いたが対丈《ついたけ》に、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
 と骨も砕くる背に被《かつ》いで、戦《わなな》くばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
 と身動《みじろ》きに眉を顰《ひそ》めて――長屋の窓からお饒舌《しゃべ》りの媽々《かかあ》の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧《おさ》えて、爪立《つまだ》って、
「厭な、どうして、こんなに雲脂《ふけ》が生《で》きて?」

       五十四

 主税が大急ぎで、ト引挟《ひっぱさ》まるようになって、格子戸を潜《くぐ》った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、粗※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそっ》かしいこと。」
 まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘《こうもり》と、その柄に引掛けた中折帽《なかおれ》を忘れた。
 後へ立淀んで、こなたを覗《なが》めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪|形《なり》に掉《ふ》って、格子を叩きながら、のそりと入った。
 誰も居なくなると、お妙はその二重瞼《ふたかわめ》をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横|歩行《ある》きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背《せな》をつけて、くるりと向をかえて凭《もた》れると、学校から帰ったなりの袂《たもと》を取って、振《ふり》をはらりと手許へ返して、睫毛《まつげ》の濃くなるまで熟《じっ》と見て、袷《あわせ》と唐縮緬《めりんす》友染の長襦袢《ながじゅばん》のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算《かぞ》えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
 ただし遣方が仇気《あどけ》ないから、まだ覗いている件《くだん》の長屋窓の女房《かみさん》の目では、おやおや細螺《きしゃご》か、鞠《まり》か、もしそれ堅豆《かたまめ》だ、と思った、が、そうでない。
 引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
 さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細《こまか》に一段ばかり有ることは言うまでもない。
 お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中《おんな》が味噌汁《おみおつけ》を装《も》って来る間に、膳の傍《そば》へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語《みだし》で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張《ひっぱ》ったり、畳んだり、太《いた》く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中《おんな》と入違いに、洋燈《ランプ》棚へついと起《た》って、剪刀《はさみ》を袖の下へ秘《かく》して来て、四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫《しごと》は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
 母様《かあさん》は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎《あなた》、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他《ほか》に二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉《おかまいなし》。
 で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
 と書生はまた、内々はがき便《だより》見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰《せんぐり》になったのを、あ
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