それらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。
「また、水いたずらをしているんですね。」
 と顔を視《なが》めて元気らしく、呵々《からから》と笑うと、柔《やさし》い瞳が睨《にら》むように動き止まって、
「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」
「ああ、成程。」
 と始めて金盥を覗込《のぞきこ》んで俯向《うつむ》いた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、
「御清書ですかい。」
「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日《あさって》学校へ持って行くのを、これから描《か》くんだわ。」
「御手本は何です、姉様《あねさま》の顔ですか。」
「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」
 と莞爾《にっこり》して、独りで頷《うなず》いて、
「もっと可いもの、杜若《かきつばた》に八橋よ。」
「から衣きつつ馴《な》れにし、と云うんですね。」
 と云いかけて愁然《しゅうぜん》たり。
 お妙は何の気もつかない、派手な面色《おももち》して、
「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」
「可哀相に。」
 と苦笑いをすると、お妙は真顔で、
「だって、主税さん、先年《いつか》私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下《あなた》は、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」
 とつけつけ云う。
「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」と更《あらた》めて聞くと、心ありげに頷いて、
「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、臈《ろう》たく生垣から、二階を振仰ぐ。
 主税はたちまち思いついたように、
「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘《こうもりがさ》を投出すごとく、井の柱へ押倒《おったお》して、勢《いきおい》猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、
「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込《つっこ》むほど引掛《ひっか》けたと思うと、お妙がものを云う間《ひま》も無かった。手を早や金盥に突込んで、
「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」

       五十三

「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫《しずく》がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
 と躾《たしな》めるように云って、お妙は上衣を引取《ひっと》って、露《あらわ》に白い小腕《こがいな》で、羽二重で結《ゆわ》えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように癇性《かんしょう》で、寒の中《うち》も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可《い》いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に被《き》せて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅《つまべに》と云って、貴娘、紅をさしたような美《うつくし》い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
 ああ、これは、」
 と片頬笑《かたほえ》みして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可《よ》くってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代《みがわり》に立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と独言《ひとりごと》のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日《あさって》お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「翌日《あした》は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
 と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟《じっ》と見て振仰いで、
「その、衣兜《かくし》にあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑《おか》しいんです。え、顔に墨が刎《は》ねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日《あした》また日曜ね、貴郎《あなた》の許《とこ》へ遊びに行ってよ。」
 水に映った主税の色は、颯《さっ》と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細《しさい》あって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
 と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ莟《つぼみ》が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれ
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