急《せ》いた声で賺《すか》すがごとく、顔を附着《くッつ》けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷《うなず》いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、安堵《あんど》の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
 河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉《ドア》を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝《つい》と抜けて、顔に当てた袖を落した。
 雨を帯びたる海棠《かいどう》に、廊下の埃《ほこり》は鎮まって、正午過《ひるすぎ》の早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外《おもて》は麗《うららか》な日なのである。
 ト押重《おっかさな》って、木《こ》の実の生《な》った状《さま》に顔を並べて、斉《ひと》しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓《なめくじ》の這うにこそ。
 真砂町の家《うち》へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
 さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様《かあさん》御飯、と遣って、何ですね、唯今《ただいま》も言わないで、と躾《たしな》められそうな処。
 そうではなかった。
 例《いつも》の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着《ねまき》の上に、縞《しま》の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶《おもやつ》れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚《なまめ》かしい。
 寝床の上に端然《きちん》と坐って、膝へ掻巻《かいまき》の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団《ふとん》に敷いている。
 これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
 美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
 優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音《あしおと》で、襖《ふすま》の外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」


     紫

       五十二

 お茶漬さらさら、大好《だいすき》な鰺《あじ》の新切で御飯が済むと、硯《すずり》を一枚、房楊枝《ふさようじ》を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯《しごき》に手拭《てぬぐい》を挟んで、金盥《かなだらい》をがらん、と提げて、黒塗に萌葱《もえぎ》の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所|穿《ばき》を、雪の素足に突掛《つっか》けたが、靴足袋を脱いだままの裾短《すそみじか》なのをちっとも介意《かま》わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状《さま》は、踊舞台の潮汲《しおくみ》に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
 お妙は玄関|傍《わき》、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷《すべ》りのある井戸|流《ながし》へ危気《あぶなげ》も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾《しつけ》が可《い》いから、もう十一二の時分から膚《はだ》についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染《なじみ》で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶《つるべ》へ唇を押附《おッつ》けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々|花片《はなびら》が浮ぶのであった。直《すぐ》に桃色の襷《たすき》を出して、袂を投げて潜《くぐ》らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮《わた》の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯《さっ》とかかる、水が紫に、墨が散った。
 宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎《は》ねて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りはじめたが、何を焦《じ》れたか、ぐいと引断《ひっちぎ》るように邪険である。
 ト構内《かまえうち》の長屋の前へ、通勤《つとめ》に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装《いでたち》、何だか衣兜《かくし》を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘《こうもりがさ》さえ携えて、早瀬が前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、悄然《しょうぜん》として入って来たが、梅の許《もと》なるお妙を見る……
「おお、」
 と慌《あわただ》しい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
 お妙はそれまで気がつかなかった。呼《よば》れて、手を留《とめ》て主税を見たが、水を汲んだ名残《なごり》か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言《ことば》なき世の
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