て、卓子を軽《かろ》く打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
 その筋じゃ、直《じ》きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈《はず》だ。しかしその申立てが、攫徒の言《ことば》に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措《お》いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細《しさい》も無く済むにゃ済んだ。
 真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚《はばか》って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
 で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
 同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
 河野にも言《ことば》を分けて、
「直接《じか》に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊《どろぼう》とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話《ひそひそばなし》さ。」
 誰も否とは云わんのに、独りで嵩《かさ》にかかって、
「紙入を手から手へ譲渡《ゆずりわたし》をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
 とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄《しりめづかい》もしなくなったので、果は遠慮なく視《なが》めていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
「父上《とうさん》に……聞いて……頂戴。」
 とお妙は口惜《くや》しそうに、あわれや、うるみ声して云った。
 二人|密《そっ》と目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢《あなた》の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
 お妙は気を張《はり》つめんと勤むるごとく、熟《じっ》と瞶《みまも》る地図を的に、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、先刻《さっき》からどんなに堪《こら》えたろう。得《え》忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。

       五十一

 いや、学士二人驚いた事。
「貴娘《あなた》、どうしたんだ。」
 と教頭が椅子から突立《つった》った時は、お妙は始からしっかり握った袂《たもと》をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱《ひじ》を円《まろ》く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
 靴音高く傍《そば》へ寄ると、河野も慌《あわただ》しく立って来て、
「泣いちゃ不可《いけ》ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちと穏《おだやか》でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
 と密《そっ》と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
 河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向《うつむ》いた玉の頸《うなじ》へ、横から徐々《そろそろ》と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦《わなな》かしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂《おも》えらく、今夜の会計は河野|持《もち》だ。
 途端にお妙が身動をしたので、刎飛《はねと》ばされたように、がたりと退《すさ》る。
「もう帰っても可《い》いんですか。」
 と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言《ことば》もあるまい。
「可いですとも!」
 と教頭が言いも果てぬに、身を捻《ひね》ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰《およびごし》に追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可《いか》んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜《い》いですかね、ね。
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