と抓《つま》んで、蚤《はや》いこと、お妙の袖摺《そです》れに出そうとするのを、拙《まず》い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
英吉は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、急いでその名刺と共に、両手を衣兜《かくし》へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行《ある》きに、ぐるりと地図を背負《しょ》って、お妙の真正面《まっしょうめん》へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦《こす》りつけて、清めた気で、くの字|形《なり》に腕を出したは、短兵急に握手の積《つもり》か、と見ると、揺《ゆる》がぬ黒髪に自然《おのず》と四辺《あたり》を払《はらわ》れて、
「やあ、はははは、失敬。」
と英吉大照れになって、後ざまに退《さが》って(おお、神よ。)と云いそうな態《たい》になり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆《みんな》貴女を知っているのですよ。はあ……」
と独《ひとり》で頷《うなず》いて、大廻りに卓子《テイブル》の端を廻って、どたりと、腹這《はらんば》いになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸《のりかか》って、
「何を話していたのだい。」
教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨《ね》めつけ、苦き顔して、その行過《やりすごし》を躾《たしな》めながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
「貴娘《あなた》知らんのならお聞きなさい。頃日《このごろ》の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒《すり》に掏《や》られたです。取られたと思うと、気が着いて、直《ただち》に其奴《そいつ》を引掴《ひッつかま》えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛《たけ》り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
「撲《なぐ》られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙《あが》らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打《ぶ》たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
証拠は無かったが、怪《あやし》むべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜《よ》の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗《ふくさ》に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子《かね》を持っていたんだ。
ねえ、貴娘。拘引《こういん》して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそっか》しく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」
五十
「攫徒《すり》の名も新聞に出ているがね、何とか小僧|万太《まんた》と云うんだ。其奴《そいつ》の白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来《おおふでか》しに打攫《ふんづか》まって、往生をしたんだが、対手《あいて》が面《つら》を撲《なぐ》ったから、癪《しゃく》に障って堪《たま》らないので、ちょうど袖の下に俯向《うつむ》いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻《さかねじ》に捻じたと云うんだね。
ところで、まん[#「まん」に傍点]直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩《おそ》くなってから胡乱《うろ》ついていると、うっかり出合ったのが、先刻《さっき》、紙入れを辷《すべ》らかした男だから、金子《かね》はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂《たもと》を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可《いか》んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時《ひととき》でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心《ぬすっとごころ》を持った時なら、浅草橋の欄干《てすり》を蹈《ふ》んで、富貴竈《ふうきかまど》の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
と教頭は椅子をずらし
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