《まぶた》を紅《くれない》にして、お妙は友染の襦袢《じゅばん》ぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
と問返した時、教頭は傲然《ごうぜん》として、卓子に頤杖《あごづえ》を支《つ》く。
「ええ、」とばかりで、お妙は俯向《うつむ》いて、瞬きしつつ、流眄《しりめづかい》をするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様の許《とこ》へ、頃日《このごろ》に参った事はないですかね。或《あるい》は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
小さな声だったが判然《はっきり》と、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯《しらは》で噛《か》んだ。この時、この色は、瞼のその朱《あけ》を奪うて、寂《さみ》しく白く見えたのである。
「行かん筈《はず》はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘《かく》すのじゃないかね。」
「存じませんの。」
と頭《つむり》を掉《ふ》ったが、いたいけに、拗《す》ねたようで、且つくどいのを煩《うる》さそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒《すり》の手伝いをする、巾着切《きんちゃくきり》の片割のような男ですぞ!」
簪《かんざし》の花が凜《りん》として色が冴えたか気が籠って、屹《きっ》と、教頭を見向いたが、その目の遣場《やりば》が無さそうに、向うの壁に充満《いっぱい》の、偉《おおい》なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清《すずし》い瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
で、見ないんなら御覧なさい。他《ほか》の二三の新聞にも記《か》いてあるですが。このA……が一番|悉《くわ》しい。」
と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦《そよ》いだ。
「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、極《きま》りが悪いかね。何、知らないんなら宜《よろ》しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
と太《いた》く侮《あなど》った語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘《かく》すですもの。何で真相が解りますか。」
コツコツ廊下から剥啄《ノック》をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身《そりみ》に伸びて、
「カム、イン、」と猶予《ためら》わずに答えた。
この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
すなわち扉《ドア》を細目に、先ず七分立《しちぶだち》の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪《たて》ネクタイ、金剛石《ダイアモンド》の針留《ピンどめ》の光っただけでも、天窓《あたま》から爪先《つまさき》まで、その日の扮装《いでたち》想うべしで、髪から油が溶《とろ》けそう。
早や得《え》も言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽《あお》る。
四十九
「失敬、失敬。」
とちと持上げて、浮かせ気味に物|馴《な》れた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後《うしろ》から、横顔をじろりと見る。
河野の調子の発奮《はず》んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学(と力を入れて、)の図書館に検《しら》べものをして、それから精養軒で午飯《ひるめし》を食うて来た。これからまたH博士の許《とこ》へ行かねばならん。」
と忙《せわ》しそうに肩を掉《ふ》って、
「君(とわざと低声《こごえ》で呼んで、)この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越《みしりごし》のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は可訝《おかし》かろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」と真《まこと》に余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、過般《いつか》も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
同じ文字を露《あらわ》した大形の名刺の芬《ぷん》と薫るのを、疾《と》く用意をしていたらしい、ひょい
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