て、先生の目から面《おもて》を背ける。
 酒井は、杯を、つっと献《さ》し、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
 と進ませ、肩を聳《そびや》かして屹《きっ》と見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離《わかれ》の杯にするか。」
「…………」
「それとも婦《おんな》を思切るか。芳、酌《つ》いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
 銚子を挙げて、猪口《ちょく》を取って、二人は顔を合せたのである。

       四十五

 その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を愚図々々《ぐずぐず》しているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密《そっ》と圧《おさ》えながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更《あらた》めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎《あなた》。
 ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有《おっしゃ》るんですから、貴下《あなた》もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
 と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮《きづか》うのである。
「蔦吉さんが、どんなに何《なん》したって、私が知らない顔をしていれば可《よ》かったのですけれど、思う事は誰も同一《おなじ》だと、私、」
 と襟に頤《おとがい》深く、迫った呼吸《いき》の早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、貴女《あなた》が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
 と酒井の前を庇《かば》う気で、肩に力味《りきみ》を入れて云ったが、続いて言おうとする、
(貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も糸瓜《へちま》もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦《おんな》を連れて駈落《かけおち》をしかねない。短兵急に首を圧《おさ》えて叩っ斬ってしまうのだ。
 早瀬。」
 と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦《おんな》が怨んでも、泣いても可い。憧《こが》れ死《じに》に死んでも可い。先生の命令《いいつけ》だ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、この他《ほか》に言句《もんく》はないのよ。」
(どうだ。)と頤《あご》で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱《ひじ》をついた。
「婦を棄てます。先生。」
 と判然《はっきり》云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口《ちょく》と相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
 物をも言わず、背向《うしろむ》きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯《ひとつ》、もう一ツ。」
 と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
 小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添《ひっそ》うて縋《すが》り状《ざま》に、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
 と自分で雨戸を。
「それは不可《いけ》ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄《つま》。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開《あ》かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙《せわし》く巻莨《まきたばこ》を吸うのであった。
 二時《ふたとき》ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹《ぼたん》の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と酒気《さかけ》のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠《かれ》は姉さんと、手をしっかりと取り合った。
 時に、寂《ひっそ》りした横町の、とある軒燈籠の白い明《あかり》と、板塀の黒い蔭とに挟《はさま》って、平《ひらた》くなっていた、頬被《ほおかむり》をした伝坊が、一人、後先を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、密《そっ》と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後《うしろ》へ、……抜足で急々《つかつか》。
「もし、」
「…………」
「先刻《さっき》アどうも。よく助けて下すったねえ。」
 と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着《はんてんぎ》。


    
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