誰が引く袖
四十六
土曜日は正午《ひる》までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌《ぱっ》と麗《うららか》な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若《かきつばた》よりも紫である。
年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
阿嬢《おじょう》は、就中《なかんずく》活溌に、大形の紅入友染の袂《たもと》の端を、藤色の八ツ口から飜然《ひらり》と掉《ふ》って、何を急いだか飛下りるように、靴の尖《さき》を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履|穿《ばき》で急いで来て、
「ああ酒井様。」
と云う。優等生で、この容色《きりょう》であるから、寄宿舎へ出入《ではい》りの諸商人《しょあきんど》も知らぬ者は無いのに、別けて馴染《なじみ》の翁様《じいさま》ゆえ、いずれ菖蒲《あやめ》と引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
と振向くと、小使は小腰を屈《かが》めて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
と友達も、吃驚《びっくり》したような顔で※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、出口に一人、駒下駄《こまげた》を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連《みちづれ》が、斉《ひと》しく三方からお妙の顔を瞻《みまも》って黙った。
この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様《じいさま》がまた、そこらの口が姦《かしまし》いと察した気転か。
「何か、お父様へ御託《おこと》づけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
と莞爾《にっこり》して、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
お妙はずんずん小使について廊下を引返《ひっかえ》しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許《もと》を擦《さす》って見せた。
「応接|室《ま》でござりますわ。」
教員室の前を通ると、背後《うしろ》むきで、丁寧に、風呂敷の皺《しわ》を伸《のば》して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様《のけざま》に寝て、両肱《りょうひじ》を空に、後脳を引掴《ひッつか》むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦《おんな》は、言わずとも、体操の師匠である。
行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目《ふしめ》になって、コトコト跫音《あしおと》が早くなった。階子段《はしごだん》の裏を抜けると、次の次の、応接室の扉《ドア》は、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入《がらすどいり》の、大書棚の前に、卓子《テイブル》に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛《さんらん》たる、新《あたらし》い洋書《ブック》の中ほどを開けて読む、天窓《あたま》の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶《えびちゃ》と緋縮緬《ひぢりめん》の交換だ。)と主税が憤った一人である。
この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇《とめき》の薫|馥郁《ふくいく》としてと云う、創作的|文字《もんじ》をここに挟《さしはさ》み得ることを感謝しよう。勿論、その香《におい》の、二十世紀であるのは言うまでもない。
お妙は、扉《ドア》に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
閑耕は、キラリ目金《めがね》を向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯《ひげ》の尖《さき》をピンと立てた、頤《あご》が円い。
「こちらへ、」
と鷹揚《おうよう》に云って、再び済まして書見に及ぶ。
お妙は扉に附着《くッつ》いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮《はずみ》で目金が躍る。
頬桁《ほおげた》へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込《もみこ》むと、睫毛《まつげ》を圧《おさ》え込んで、驚いて、指の尖を潜《くぐ》らして、瞼《まぶた》を擦《こす》って、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」
四十七
もう傍《そば》へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟《じっ》と立っ
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