「早瀬さん、私、私じゃ、」
 と声が消えて、小芳は紋着《もんつき》の袖そのまま、眉も残さず面《おもて》を蔽《おお》う。
「いや、愛想の尽きた蛆虫《うじむし》め、往生際の悪い丁稚《でっち》だ。そんな、しみったれた奴は盗賊《どろぼう》だって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
 これ、姦通《まおとこ》にも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実《わけ》でもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の児《こ》の始末をするにも、鰹節《かつおぶし》はつきものだ。談《はなし》を附けて、手を切らして、綺麗に捌《さば》いてやろうと思って、お前の許《とこ》へ行くつもりで、百と、二百は、懐中《ふところ》に心得て出て来たんだ。
 この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡《りょうけん》じゃ、汝《うぬ》が家を野天《のでん》にして、婦《おんな》とさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜《くや》しくば、おい、こうやって馴染《なじみ》の芸者を傍《そば》に置いて、弟子に剣突《けんつく》をくわせられる、己のような者になって出直して来い。
 さあ、帰れ、帰れ、帰れ! 汚《けがら》わしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを起《た》たんと蹴殺《けころ》すぞ!」
「あれ、お謝罪《わび》をなさいまし。」と小芳が楯《たて》に、おろおろする。
 主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」と熟《じっ》と瞻《みつ》めて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」

       四十三

「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻《さっき》も云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ己《おれ》が追出《おんで》る、お前ともこれきりだから、そう思え。」
 と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を揺《ゆす》った。小芳は幼《いとけな》いもののごとく、あわれに頭《かぶり》を掉《ふ》って、厭々をするのであった。
「姉さん、」
 と思込んだ顔を擡《もた》げた、主税は瞼《まぶた》を引擦《ひっこす》って、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
「貴女《あなた》は、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
 と更《あらた》めて、両手を支《つ》いて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ連累《まきぞえ》でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私《わたくし》を御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
 と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
 内に蔦吉が居るんだな。
 もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
 と吻《ほっ》と息を吐《つ》いたと思うと、声が霑《うる》む。
 最早罪に伏したので、今までは執成《とりな》すことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計《みはから》って、初心にも、袂《たもと》の先を爪《つま》さぐりながら、
「大目に見てお上《あげ》なすって下さいまし。蔦吉さんも仇《あだ》な気じゃありません。決《け》して早瀬さんのお世帯の不為《ふため》になるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な妓《こ》が落籍祝《ひきいわい》どころじゃありません、貴郎《あなた》、着換《きがえ》も無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁《よに》げをするようにして落籍《ひい》たんですもの。
 堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣《ひとえもの》ぐらい縫えますって、この間も夜|晩《おそ》く私に逢いに来たんですがね。」
 と婀娜《あだ》な涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、と拗《す》ねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地《ところ》馴れないのに、臆病《おくびょう》な妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着《くッつ》いて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
 と空色の、瞼《まぶた》を染めて、浅く圧《おさ》えた襦袢《じゅばん》の袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
「世迷言《よまいごと》を言うなよ。」
 と膠《にべ》もなく、虞氏《ぐし》が涙《なんだ》を斥《しりぞ》けて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
「行処《ゆきどこ》もございません、仕様
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