! 俺《おい》ら弟子はいくらでもある、が小児《こども》の内から手許に置いて、飴《あめ》ン棒までねぶらせて、妙と同一《ひとつ》内で育てたのは、汝《きさま》ばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
(世間に在るやつでごわります。飼犬に手を噛《か》まれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。
 馬鹿野郎、これ、」
 と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの鈍的《とんちき》でもなかったが、天罰よ。先生の目を眩《くら》まして、売婦《ばいた》なんぞ引摺込む罰が当って、魔が魅《さ》したんだ。
 嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後《こうご》妙の名も言うな。
 生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、汝《てめえ》の面当《つらあて》にも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
「貴郎《あなた》、」
 と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒《ふらち》を働く。第一お前も、」
 稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、共謀《ぐる》だ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入《やぶいり》に新橋を見た素丁稚《すでっち》のように難有《ありがた》いもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便《ふびん》を掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦《いろ》を難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向《うつむ》いておれ。」
 はっと首垂《うなだ》れたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
 主税は手を支《つ》いて摺《ず》って出た。
「先《せ》、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
 と大呼吸《おおいき》を胸で吐《つ》くと、
「黙れ! 生れてから、俺《おいら》、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」

       四十二

「お言葉を反《かえ》しますようでございますが、」
 主税は小芳の自分に対する情が仇《あだ》になりそうなので、あるにもあられず据身《すえみ》になって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。私《わたくし》は覚悟がございます、彼奴《あいつ》に対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の明《あかり》は、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。己《おれ》に申訳が無くって、首を縊《くく》る覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
 と叱《しっ》して、調子を弛《ゆる》めて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目《めくら》だから悪い事を働いて、一端《いっぱし》己の目を盗んだ気で洒亜々々《しゃあしゃあ》としているんだ。
 先刻《さっき》どうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種《いいぐさ》もあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何の状《ざま》だ。婆《ばばあ》が高利貸をしていやしまい、主人《あるじ》の留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
 また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は暗《やみ》でも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、婦《おんな》の下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証《ないしょう》でする事は客の靴へ灸を据えるのさえ秘《かく》しおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
 悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言《こごと》を云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を算《よ》まして讃《ほ》めてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」
 これは、(攫徒《すり》)と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと支《つ》いた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
 霹靂《へきれき》のごとく、
「帰れ!」
 小芳が思わず肩を窘《すく》める。

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