まぶた》が颯《さっ》と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然《れっき》とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章《あわて》なさんな。
 僭上《せんじょう》だよ、無礼だよ、罰当り!
 お前が、男世帯をして、いや、菜が不味《まず》いとか、女中《おんな》が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可《い》いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活《うど》を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体《もったい》ない、一度先生が目を通して、綺麗に装《も》ってあるのを、重箱のまま、売婦《ばいた》とせせり箸《ばし》なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
 よく、その慈姑《くわい》が咽喉《のど》に詰って、頓死《とんし》をしなかったよ。
 無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
 と大喝した。
 主税は思わず居直って、
「邪魔を……私《わ》、私《わたくし》が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己《おれ》に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方《さき》の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
 第一、汝《きさま》のような間違った料簡《りょうけん》で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
 何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点《のみこ》んでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕《あばた》が、」
 と色をかえて戦《わなな》いた。主税はしかも点々《たらたら》と汗を流して、
「他《ほか》の事とは違います、聞棄てになりません。私《わたくし》は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許《とこ》へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態《なり》をしやあがって、薄髯《うすひげ》の生えた面《つら》を、どこまで曝《さら》して歩行《ある》いているんだ。」
 と火鉢をぐいぐいと揺《ゆすぶ》って。

       四十一

「あっちへ蹌々《ひょろひょろ》、こっちへ踉々《よろよろ》、狐の憑《つ》いたように、俺の近所を、葛西《かさい》街道にして、肥料桶《こえたご》の臭《におい》をさせるのはどこの奴だ。
 何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体《からだ》に探捜《さぐり》を入れるのが、不都合だとか、不意気《ぶいき》だとか言うそうだが、」
 噫《ああ》、礼之進が皆|饒舌《しゃべ》った……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
 学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶《と》るのだ。念を入れんでどうするものか。検《しら》べるのは当前《あたりまえ》だ。芸者を媽々《かかあ》にするんじゃない。
 また己《おれ》の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体《はだか》で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
 何が可恐《おそろし》い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等《かれら》の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
 よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪《しゃく》に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体《からだ》を秘《かく》した日にゃ、按摩《あんま》の勢揃ほど道学者輩が杖《つえ》を突張って押寄せて、垣覗《かきのぞ》きを遣ったって、黒子《ほくろ》一点《ひとつ》も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
 とまた屹《きっ》と見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧《おさ》えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負|猪《じし》でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
 馬鹿野郎
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