ございます、と小商人《こあきんど》風の一分別ありそうなのがその同伴《つれ》らしい前垂掛《まえだれかけ》に云うと、こちらでは法然天窓《ほうねんあたま》の隠居様が、七度《ななたび》捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服《ふく》を着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘《これ》の貴下《あなた》、(と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌《ぽってり》した娘の膝を叩いて、)簪《かんざし》へ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この娘《こ》が恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを堪《こら》えていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、大《おおき》な足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆《おなごしゅ》が怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、疾《とっく》の前《さき》、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客《のりて》が散らずに居りゃ、私達《わっしだち》だって関合《かかりあ》いは抜けませんや。巡査《おまわり》が来て、一応|検《しら》べるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄《おりかばん》を抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁《おやじ》に、尻上りに弁じたのである。
いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
あえて人の憂《うれい》を見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として悲《かなし》むほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説《うわさ》を、耳を澄まして聞き取りながら、太《いた》く憂わしげな面色《おももち》で。
実際|鬱込《ふさぎこ》んでいるのはなぜか。
忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨《にら》むがごとくにしていることを。
三十五
鬱ぐも道理《ことわり》、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線《そとぼりせん》に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居《すまい》へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜《りん》として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生《ばちりしょう》ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙《すく》んで、僥倖《さいわい》そこでも乗客《のりて》が込んだ、人蔭になって、眩《まばゆ》い大目玉の光から、顔を躱《か》わして免《まぬか》れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件《くだん》の売卜者《うらない》の行燈《あんどう》が、真黒《まっくろ》な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺《あたり》から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸《とむね》を支《つ》いたのは、お蔦の儀。
ひとえに御目玉の可恐《おそろし》いのも、何を秘《かく》そう繻子《しゅす》の帯に極《きわま》ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音《あしおと》は、聞覚えている。
その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信《おとず》れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特《こと》に、似たもの夫婦の譬《たとえ》、信玄流の沈勇の方ではないから、随分|飜然《ひらり》と露《あらわ》れ兼ねない。
いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
あいにく例《いつも》のように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行《ある》いたので、とこう云う間《ひま》もなかった、早や我家
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