で、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向《ねじむ》いて、硝子戸《がらすど》から覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴《ちょうじどもえ》の羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深《ひたいぶか》く、ふらふら坐眠《いねむ》りをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
 けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いた瞳には、一点も睡《ねむ》そうな曇《くもり》が無い。
 惟《おも》うに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄も介《かま》わず弁じられよう恐《おそれ》があるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
「攫《や》られたのかい。」
「はい、」
 と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
 先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高《せだか》く車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団《ひとかたまり》の、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
 主客顛倒《しゅかくてんどう》、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕《あばた》は砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
 あろう事か、あっと頬げたを圧《おさ》えて退《すさ》る、道学者の襟飾《ネクタイ》へ、斜《はすっ》かいに肩を突懸《つっか》けて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸《すり》だ、盗賊《どろぼう》だと……クソを啖《くら》え。ナニその、胡麻和《ごまあえ》のような汝《てめえ》が面《つら》を甜《な》めろい! さあ、どこに私《わっし》が汝《てめえ》の紙入を掏《す》ったんだ。
 こっちあまた、串戯《じょうだん》じゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、踵《かかと》と大した違えは無えから、ははは、」
 と夜の大路へ笑《わらい》が響いて、
「汝《てめえ》の方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念《あきら》めてよ。難有《ありがた》く思え、日傭取《ひようとり》のお職人様が月給取に謝罪《あやま》ったんだ。
 いつ出来た規則だか知らねえが、股《もも》ッたア出すなッてえ、肥満《ふと》った乳母《おんば》どんが焦《じれ》ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様《ほかさま》の足を踏みゃ、引摺下《ひきずりおろ》される御法だ、と往生してよ。」
 と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
 また礼之進に突懸《つっかか》る。

       三十四

「掏《す》られた、盗《と》られたッて、幾干《いくら》ばかり台所の小遣《いりよう》をごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝《てめえ》がその面《つら》で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
 へん、鈍漢《のろま》。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口《がまぐち》が有るもんかい、疾《とっ》くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
 さあ、お目通りで、着物を引掉《ひっぷる》って神田児《かんだッこ》の膚合《はだあい》を見せてやらあ、汝が口説く婦《おんな》じゃねえから、見たって目の潰《つぶ》れる憂慮《きづけえ》はねえ、安心して切立《きったて》の褌《ふんどし》を拝みゃあがれ。
 ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝《うぬ》、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
 と酒井は快活に云って、原《もと》の席に帰った。
 車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢《いきおい》なく戻って、がちゃりと提革鞄《さげかばん》を一つ揺《ゆす》って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々《ごたごた》揉むのを、通り過ぎ状《ざま》に見て進む。
 と錦帯橋《きんたいきょう》の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋《つなが》って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説《うわさ》とりどり。
 あれは掏摸《すり》の術《て》でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業《わざ》をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂《たもと》へすっこかしにして、証拠が無いから逆捻《さかね》じを遣るで
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