の路地が。
 堪《たま》りかねて、先生と、呼んで、女中《おんな》が寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが疾《はや》いか、(お先へ、)は身体《からだ》で出て、横ッ飛びに駈《か》け抜ける内も、ああ、我ながら拙《つたな》い言分。
(待て! 待て!)
 それ、声が掛った。
 酒井はそこで足を留めた。
 屹《きっ》と立って、
(宵から寐《ね》るような内へ、邪魔をするは気の毒だ。他《わき》へ行こう、一緒に来な。)
 で路が変って、先生のするまま、鷲《わし》に攫《さら》われたような思いで乗ったのが、この両国行――
 なかなか道学者の風説《うわさ》に就いて、善悪ともに、自から思虜を回《めぐ》らすような余裕とては無いのである。
 電車が万世橋《めがね》の交叉点を素直《まっす》ぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川《おおかわ》へ流罪《ながし》ものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
 と観念の眼《まなこ》を閉じて首垂《うなだ》れた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
 一場展開した広小路は、二階の燈《ひ》と、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、蒼《あお》に、萌黄《もえぎ》に、紅《くれない》に、寸隙《すきま》なく鏤《ちりば》められた、綾《あや》の幕ぞと見る程に、八重に往来《ゆきか》う人影に、たちまち寸々《ずたずた》と引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く鞠《まり》となって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
 ここに一際夜の雲の濃《こま》やかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が閃《きらめ》く。
 我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈《ふうきかまど》が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子《すりがらす》の軒の燈籠の、媚《なまめ》かしく寂寞《ひっそり》して、ちらちらと雪の降るような数ある中を、蓑《みの》を着た状《さま》して、忍びやかに行くのであった。


     柏家

       三十六

 やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと明《あかる》い、静粛《しん》としながら幽《かすか》なように、三味線《さみせん》の音《ね》が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒|大構《おおがまえ》の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、地《つち》の濡れた、軒に艶《つや》ある、その横町の中程へ行くと、一条《ひとすじ》朧《おぼろ》な露路がある。
 芸妓家《げいしゃや》二軒の廂合《ひあわい》で、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木《ひとき》、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳《たたず》むと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜《くわ》えた態《てい》で、すらすらと靡《なび》いている。
 梅と柳の間を潜《くぐ》って、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜《あだ》めくのを、隣家《となり》の背戸の、低い石燈籠がト踞《しゃが》んだ形で差覗《さしのぞ》く。
 主税は四辺《あたり》を見て立ったのである。
 先生がその肩の聳《そび》えた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸《しおりど》を叩くと、ばたばたと跫音《あしおと》聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
 と派手な友染の模様が透いて、真円《まんまる》な顔を出したが、燈《あかり》なしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の前《さき》の、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々《にこにこ》と笑いかけて、黙って引込《ひっこ》むと、またばたばたばた。
 程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が颯《さっ》と点《つ》くのを合図に、中脊で痩《やせ》ぎすな、二十《はたち》ばかりの細面《ほそおもて》、薄化粧して眉の鮮明《あざやか》な、口許《くちもと》の引緊《ひきしま》った芸妓《げいこ》島田が、わざとらしい堅気づくり。袷《あわせ》をしゃんと、前垂がけ、褄《つま》を取るのは知らない風に、庭下駄を引掛《ひっか》けて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言《だんまり》で、はたと打った。これは、この柏屋《かしわや》の姐《ねえ》さんの、小芳《こよし》と云うものの妹分で、綱次《つなじ》と聞えた流行妓《はやりっこ》である。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは貯蓄《たま》ったか。」
 と粗雑《ぞんざい》に廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
 主税はヒヤリとし
前へ 次へ
全107ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング