のが、すっと出て来て、「坊ちゃん、あげましょう。」と云って、待て……その雛ではない。定紋つきの塗長持の上に据えた緋《ひ》の袴《はかま》の雛のわきなる柱に、矢をさした靱《うつぼ》と、細長い瓢箪《ひょうたん》と、霊芝《れいし》のようなものと一所に掛けてあった、――さ、これが変だ。のちに思っても可思議《ふしぎ》なのだが、……くれたものというと払子《ほっす》に似ている、木の柄が、草石蚕《ちょうろぎ》のように巻きぼりして、蝦色《えびいろ》に塗ってあるさきの処に、一尺ばかり革の紐がばらりと一束ついている。絵で見た大将が持つ采配《さいはい》を略したような、何にするものだか、今もって解《わか》らない。が、町々辻々に、小児《こども》という小児が、皆おもちゃを持って、振ったり、廻したり、空《くう》を払《はた》いたりして飛廻った。半年ばかりですたれたが、一種の物妖《ぶつよう》と称《とな》えて可《よ》かろう。持たないと、生効《いきがい》のないほど欲しかった。が樹島にはそれがなかった。それを、夢のように与えられたのである。
 橋の上を振廻して、空を切って駈戻《かけもど》った。が、考えると、……化払子《ばけほっす》に尾が生えつつ、宙を飛んで追駈《おっか》けたと言わねばならない。母のなくなった、一周忌の年であった。
 父は児《こ》の手の化ものを見ると青くなって震えた。小遣銭をなまで持たせないその児の、盗心《ぬすみごころ》を疑って、怒ったよりは恐れたのである。
 真偽を道具屋にたしかめるために、祖母がついて、大橋を渡る半ばで、母のおくつきのある山の峰を、孫のために拝んだ、小児《こども》も小さな両手を合せた。この時の流《ながれ》の音の可恐《おそろし》さは大地が裂けるようであった。「ああ、そうとは知りませぬ。――小児衆の頑是ない、欲しいものは欲しかろうと思うて進ぜました。……毎日見てござったは雛じゃったか。――それはそれは。……この雛はちと大金《たいまい》のものゆえに、進上は申されぬ――お邪魔でなくばその玩弄品《おもちゃ》は。」と、確《しか》と祖母に向って、道具屋が言ってくれた。が、しかし、その時のは綺麗な姉さんでも小母さんでもない。不精髯《ぶしょうひげ》の胡麻塩《ごましお》の親仁《おやじ》であった。と、ばけものは、人の慾《よく》に憑《つ》いて邪心を追って来たので、優《やさし》い婦《ひと》は幻影《まぼろし》ばかり。道具屋は、稚《おさな》いのを憐《あわ》れがって、嘘で庇《かば》ってくれたのであろうも知れない。――思出すたびに空恐ろしい気がいつもする。
 ――おなじ思《おもい》が胸を打った。同時であった、――人気勢《ひとけはい》がした。――
 御廟子《みずし》の裏へ通う板廊下の正面の、簾《すだれ》すかしの観音びらきの扉《と》が半ば開きつつ薄明《うすあかる》い。……それを斜《ななめ》にさし覗《のぞ》いた、半身の気高い婦人がある。白衣に緋を重ねた姿だと思えば、通夜の籠堂《こもりどう》に居合せた女性《にょしょう》であろう。小紋の小袖に丸帯と思えば、寺には、よき人の嫁ぐならいがある。――あとで思うとそれも朧《おぼろ》である。あの、幻の道具屋の、綺麗な婦《ひと》のようでもあったし、裲襠姿振袖《うちかけすがたふりそで》の額の押絵の一体のようにも思う。……
 瞬間には、ただ見られたと思う心を、棒にして、前後も左右も顧みず、衝々《つつ》と出、その裳《もすそ》に両手をついて跪《ひざまず》いた。
「小児は影法師も授《さずか》りません。……ただあやかりとう存じます。――写真は……拝借出来るのでございましょうか。」
 舌はここで爛《ただ》れても、よその女を恋うるとは言えなかったのである。
「どの、お写真。」
 と朗《ほがらか》に、しっとり聞えた。およそ、妙《たえ》なるものごしとは、この時言うべき詞《ことば》であった。
「は、」
 と載せたまま白紙《しらかみ》を。
「お持ちなさいまし。」
 あなたの手で、スッと微《かす》かな、……二つに折れた半紙の音。
「は、は。」
 と額に押頂くと、得ならず艶《えん》なるものの薫《かおり》に、魂は空《くう》になりながら、恐怖《おそれ》と恥《はじ》とに、渠《かれ》は、ずるずると膝で退《さが》った。
 よろりと立つ時、うしろ姿がすっと隠れた。
 外套も帽も引掴《ひッつか》んで、階《きざはし》を下りる、足が辷《すべ》る。そこへ身体《からだ》ごと包むような、金剛神の草鞋《わらじ》の影が、髣髴《ほうふつ》として顕《あらわ》れなかったら、渠は、この山寺の石の壇を、径《こみち》へ転落《ころげお》ちたに相違ない。
 雛の微笑《ほほえみ》さえ、蒼穹《あおぞら》に、目に浮《うか》んだ。金剛神の大草鞋は、宙を踏んで、渠を坂道へ橇《そ》り落した。
 清水の向畠《むこうはた》のくずれ土手へ、萎々《なえなえ》となって腰を支《つ》いた。前刻の婦《おんな》は、勿論の事、もう居ない。が、まだいくらほどの時も経《た》たぬと見えて、人の来て汲《く》むものも、菜を洗うものもなかったのである。
 ほかほかとおなじ日向《ひなた》に、藤豆の花が目を円く渠を見た。……あの草履を嬲《なぶ》ったのが羨《うらやま》しい……赤蜻蛉が笑っている。
「見せようか。」
 仰向《あおむ》けに、鐘を見つつ、そこをちらちらする蜻蛉に向って、自棄《やけ》に言った。
「いや、……自分で拝もう。」
 時に青空に霧をかけた釣鐘が、たちまち黒く頭上を蔽うて、破納屋《やれなや》の石臼も眼《まなこ》が窪み口が欠けて髑髏《しゃりこうべ》のように見え、曼珠沙華《まんじゅしゃげ》も鬼火に燃えて、四辺《あたり》が真暗《まっくら》になったのは、眩《めくるめ》く心地がしたからである。――いかに、いかに、写真が歴々《ありあり》と胸に抱いていた、毛糸帽子、麻の葉鹿の子のむつぎの嬰児《あかんぼ》が、美女の袖を消えて、拭《ぬぐ》って除《と》ったように、なくなっていたのであるから。
 樹島はほとんど目をつむって、ましぐらに摩耶夫人の御堂に駈戻《かけもど》った。あえて目をつむってと言う、金剛神の草鞋が、彼奴《きゃつ》の尻をたたき戻した事は言うまでもない。
 夫人の壇に戻し参らせた時は、伏せたままでソと置いた。嬰児《あかんぼ》が、再び写真に戻ったかどうかは、疑うだけの勇気はなかったそうである。

「いや、何といたしまして。……棚に、そこにござります。金、極彩色の、……は、そちらの素木彫《しらきぼり》の。……いや、何といたして、古人の名作。ど、ど、どれも諸家様の御秘蔵にござりますが、少々ずつ修覆をいたす処がありまして、お預り申しておりますので。――はい、店口にござります、その紫の袈裟《けさ》を召したのは私《てまえ》が刻みました。祖師のお像《すがた》でござりますが、喜撰法師のように見えます処が、業《わざ》の至りませぬ、不束《ふつつか》ゆえで。」
 と、淳朴《じゅんぼく》な仏師が、やや吶《ども》って口重く、まじりと言う。
 しかしこれは、工人の器量を試みようとして、棚の壇に飾った仏体に対して試《こころみ》に聞いたのではない。もうこの時は、樹島は既に摩耶夫人の像を依頼したあとだったのである。
 一山に寺々を構えた、その一谷《ひとたに》を町口へ出はずれの窮路、陋巷《ろうこう》といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭《にお》う中に、芬《ぷん》と白檀《びゃくだん》の薫《かおり》が立った。小さな仏師の家であった。
 一小間《ひとこま》硝子《がらす》を張って、小形の仏龕《ぶつがん》、塔のうつし、その祖師の像《かたち》などを並べた下に、年紀《としごろ》はまだ若そうだが、額のぬけ上った、そして円顔で、眉の濃い、目の柔和な男が、道の向うさがりに大きな塵塚《ちりづか》に対しつつ、口をへの字|形《なり》に結んで泰然として、胡坐《あぐら》で細工盤に向っていた。「少々拝見を、」と云って、樹島は静《しずか》に土間へ入って、――あとで聞いた預りものだという仏《ぶつ》、菩薩《ぼさつ》の種々相を礼しつつ、「ただ試みに承りたい。大《おおき》なこのくらいの像《すがた》を一体は。」とおおよその値段を当った。――冷々《ひやひや》とした侘住居《わびずまい》である。木綿縞《もめんじま》の膝掛《ひざかけ》を払って、筒袖のどんつくを着た膝を居《すわ》り直って、それから挨拶した。そッときいて、……内心恐れた工料の、心づもりよりは五分の一だったのに勢《いきおい》を得て、すぐに一体を誂《あつら》えたのであった。――
「……なれども、おみだしに預りました御註文……別して東京へお持ちになります事で、なりたけ、丹、丹精を抽《ぬき》んでまして。」
 と吃《ども》って言う。
「あなた、仏様に御丹精は、それは実に結構ですが、お礼がお礼なんですから、お骨折ではかえって恐縮です。……それに、……唯今《ただいま》も申しました通り、然るべき仏壇の用意もありません。勿体なくありません限り、床の間か、戸袋の上へでもお据え申そうと思いますから、かたがた草双紙|風俗《ふう》にとお願い申したほどなんです。――本式ではありません。※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》のお姿では勿体ないと思うのですから。……お心安く願います。」
「はい、一応は心得ましてござります。なお念のために伺いますが、それでは、むかし御殿のお姫様、奥方のお姿でござりますな。」
「草双紙の絵ですよ。本があると都合がいいな。」
 樹島は巻莨《まきたばこ》を吸いさして打案じつつ、
「倭文庫《やまとぶんこ》。……」
「え、え、釈迦八相――師匠の家にございまして、私《てまえ》よく見まして存じております。いや、どうも。……」
 と胸を抱くように腕を拱《く》んで、
「小僧から仕立てられました、……その師匠に、三年あとになくなられましてな。杖とも柱とも頼みましたものを、とんと途方に暮れております。やっと昨年、真似方《まねかた》の細工場を持ちました。ほんの新店でござります。」
「もし、」
 と、仕切一つ、薄暗い納戸から、優しい女の声がした。
「端本《はほん》になりましたけれど、五六冊ございましたよ。」
「おお、そうか。」
「いや、いまお捜しには及びません。」
 様子を察して樹島が框《かまち》から声を掛けた。
「は、つい。」
「お乳《っぱ》。」
 と可愛い小児《こども》の声する。……
「めめ、覚めて。はい……お乳あげましょうね。」
「のの様、おっぱい。……のの様、おっぱい。」
「まあ、のの様ではありません、母《かあ》ちゃんよ。」
「ううん、欲《ほし》くないの、坊、のんだの、のの様のおっぱい。――お雛様《ひなちゃん》のような、のの様のおっぱい。」
「おや、夢を御覧だね。」
 樹島は肩の震うばかり胸にこたえた。
「嬢ちゃんですか。」
「ええ、もう、年弱《としよわ》の三歳《みッつ》になりますが、ええ、もう、はや――ああ、何、お茶一つ上げんかい。」
 と、茶卓に注《つ》いで出した。
「あ、」
 清水にきぬ洗える美女である。先刻《さっき》のままで、洗いさらした銘仙《めいせん》の半纏《はんてん》を引掛《ひっか》けた。
「先刻は。」
「まあ、あなた。」
「お目にかかったか。」
「ええ、梅鉢寺の清水の処で、――あの、摩耶夫人様のお寺をおききなさいました。」
 渠《かれ》は冷い汗を流した。知らずに聞いた路なのではなかったのである。
「御信心でございますわね。」
 と、熟《じっ》と見た目を、俯目《ふしめ》にぽッと染めた。
 むっくりとした膝を敲《たた》いて、
「それは御縁じゃ――ますます、丹、丹精を抽んでますで。」
「ああ、こちらの御新姐《ごしんぞ》ですか。」
 と、吻《ほっ》として、うっかり言う。
「いや、ええ、その……師、師匠の娘でござりまして。」
「何ですね、――ねえ、……坊や。」
 と、敷居の内へ……片手づきに、納戸へ背向《そがい》に面《おもて》を背けた。
 樹島は謝礼を差出した。出来《しゅったい》の上で、と辞して肯《がえん》ぜぬのを、平にと納めさすと、き
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