ちょうめんに、硯《すずり》に直って、ごしごしと墨をあたって、席書をするように、受取を――
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  記
一金……円也
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「ま、ま、摩……耶の字?……ああ、分りました。」
「御主人。」
 と樹島が手を挙げて、
「夫人のお名は、金員の下でなく、並べてか、……上の方へ願います。」
「あ、あ、あい分りました。」
「御丁寧に。……では、どうぞ。……決して口を出すのではありませんが、お顔をどうぞ、なりたけ、お綺麗になすって下さい。……お仕事の法にかなわないかは分りませんが。」
「ああ、いえ。――何よりも御容貌が大切でございます。――赤門寺のお上人は、よく店へお立寄り下さいますが、てまえどもの方の事にも、それはお悉《くわ》しゅうございましてな。……お言《ことば》には――相好《そうごう》説法――と申して、それぞれの備ったおん方は、ただお顔を見たばかりで、心も、身も、命も、信心が起《おこ》るのじゃと申されます。――わけて、御女体、それはもう、端麗微妙《たんれいみみょう》の御面相でなければあいなりません。――……てまいただ、力、力が、腕、腕がござりましょうか、いかがかと存じまするのみでして、は、はい。」
 樹島は、ただ一目散に停車場《ステエション》へ駈《かけ》つけて、一いきに東京へ遁《に》げかえる覚悟をして言った。
「御新姐の似顔ならば本懐です。」――

 十二月半ばである。日短かな暮方に、寒い縁側の戸を引いて――震災後のたてつけのくるいのため、しまりがつかない――竹の心張棒を構おうとして、柱と戸の桟に、かッと極《き》め、極めはずした不思議のはずみに、太い竹が篠《しの》のようにびしゃっと撓《しな》って、右の手の指を二本|打《うち》みしゃいだ。腕が砕けたかと思った――気が遠くなったほどである。この前日、夫人像出来、道中安全、出荷という、はがきの通知をうけていた。
 のち二日目の午後、小包が届いたのである。お医師《いしゃ》を煩わすほどでもなかった。が、繃帯《ほうたい》した手に、待ちこがれた包を解いた、真綿を幾重にも分けながら。
 両手にうけて捧げ参らす――罰当り……頬を、唇を、と思ったのが、面《おもて》を合すと、仏師の若き妻の面でない――幼い時を、そのままに、夢にも忘れまじき、なき母の面影であった。
 樹島は、ハッと、真綿に据えたまま、蒼白《あお》くなって飛退《とびしさ》った。そして、両手をついた。指はズキズキと身に応《こた》えた。
 更《あらた》めて、心着くと、ああ、夫人の像の片手が、手首から裂けて、中指、薬指が細々と、白く、蕋《しべ》のように落ちていた。
 この御慈愛なかりせば、一昨日《おととい》片腕は折れたであろう。渠《かれ》は胸に抱いて泣いたのである。
 なお仏師から手紙が添って――山妻云々とのお言《ことば》、あるいはお戯《たわむれ》でなかったかも存ぜぬが、……しごとのあいだ、赤門寺のお上人が四五度もしばしば見えて、一定《いちじょう》それに擬《なぞら》え候よう、御許様《おんもとさま》のお母様の俤《おもかげ》を、おぼろげならず申伝えられましたるゆえ――とこの趣であった。
 ――樹島の事をここに記して――
 筆者は、無憂樹、峰茶屋心中、なお夫人堂など、両三度、摩耶夫人の御像《みすがた》を写そうとした。いままた繰返しながら、その面影の影らしい影をさえ、描き得ない拙《つたな》さを、恥じなければならない。
[#地から1字上げ]大正十三(一九二四)年七月



底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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