優しく、斜《ななめ》だちの横顔、瞳の濡々《ぬれぬれ》と黒目がちなのが、ちらりと樹島に移ったようである。颯《さっ》と睫毛《まつげ》を濃く俯目《ふしめ》になって、頸《えり》のおくれ毛を肱白く掻上げた。――漆にちらめく雪の蒔絵《まきえ》の指さきの沈むまで、黒く房《ふっさ》りした髪を、耳許《みみもと》清く引詰《ひッつ》めて櫛巻《くしまき》に結っていた。年紀《とし》は二十五六である。すぐに、手拭を帯に挟んで――岸からすぐに俯向くには、手を差伸《さしのば》しても、流《ながれ》は低い。石段が出来ている。苔も草も露を引いて皆青い。それを下りさまに、ふと猶予《ためら》ったように見えた。ああ、これは心ないと、見ているものの心着く時、褄《つま》を取って高く端折《はしょ》った。婦《おんな》は誰も長襦袢《ながじゅばん》を着ているとは限らない。ただ一重の布も、膝の下までは蔽わないで、小股をしめて、色薄く縊《くび》りつつ、太脛《ふくらはぎ》が白く滑《なめら》かにすらりと長く流《ながれ》に立った。
 ひたひたと絡《まつわ》る水とともに、ちらちらと紅《くれない》に目を遮ったのは、倒《さかさま》に映るという釣鐘の竜の炎でない。脱棄《ぬぎす》てた草履に早く戯るる一羽の赤蜻蛉の影でない。崖のくずれを雑樹また藪《やぶ》の中に、月夜の骸骨《がいこつ》のように朽乱れた古卒堵婆《ふるそとば》のあちこちに、燃えつつ曼珠沙華《まんじゅしゃげ》が咲残ったのであった。
 婦《おんな》は人間離れをして麗《うつく》しい。
 この時、久米の仙人を思出して、苦笑をしないものは、われらの中に多くはあるまい。
 仁王の草鞋の船を落ちて、樹島は腰の土を払って立った。面《つら》はいつの間にか伸びている。
「失礼ですが、ちょっと伺います――旅のものですが。」
「は、」
「蓮行寺《れんぎょうじ》と申しますのは?」
「摩耶夫人様のお寺でございますね。」
 その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうとい※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》の貴女の、さながらの御《おん》かしずきに対して、渠《かれ》は思わず一礼した。
 婦《おんな》はちょうど筧《かけひ》の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱《あさぎ》に雫《しずく》する花を楯《たて》に、破納屋《やれなや》の上路《のぼりみち》を指して、
「その坂をなぞえにお上りなさいますと、――戸がしまっておりますが、二階家が見えましょう。――ね、その奥に、あの黒く茂りましたのが、虚空蔵様のお寺でございます。ちょうどその前の処が、青く明《あかる》くなって、ちらちらもみじが見えますわね……あすこが摩耶夫人様でございます。」
「どうもありがとう――尋ねたいにも人通りがないので困っていました。――お庇様《かげさま》で……」
「いいえ……まあ。」
「御免なさい。」
「お静《しずか》におまいりをなさいまし……御利益がございますわ。」
 と、嫁菜の花を口許《くちもと》に、瞼《まぶた》をほんのり莞爾《にっこり》した。
 ――この婦人《おんな》の写真なのである。

 写真は、蓮行寺の摩耶夫人の御堂《みどう》の壇の片隅に、千枚の歌留多《かるた》を乱して積んだような写真の中から見出《みいだ》された。たとえば千枚千人の婦女が、一人ずつ皆|嬰児《あかご》を抱いている。お産の祈願をしたものが、礼詣りに供うるので、すなわち活きたままの絵馬である。胸に抱いたのも、膝に据えたのも、中には背に負《おんぶ》したまま、両の掌《て》を合せたのもある。が、胸をはだけたり、乳房を含ませたりしたのは、さすがにないから、何も蔽《おお》わず、写真はあからさまになっている。しかし、婦《おんな》ばかりの心だしなみで、いずれも伏せてある事は言うまでもない。
 この写真が、いま言った百人一首の歌留多のように見えるまで、御堂は、金碧蒼然《きんぺきそうぜん》としつつ、漆と朱の光を沈めて、月影に青い錦《にしき》を見るばかり、厳《おごそか》に端《ただ》しく、清らかである。
 御厨子《みずし》の前は、縦に二十間がほど、五壇に組んで、紅《くれない》の袴《はかま》、白衣《びゃくえ》の官女、烏帽子《えぼし》、素袍《すおう》の五人|囃子《ばやし》のないばかり、きらびやかなる調度を、黒棚よりして、膳部《ぜんぶ》、轅《ながえ》の車まで、金高蒔絵《きんたかまきえ》、青貝を鏤《ちりば》めて隙間なく並べた雛壇《ひなだん》に較べて可《い》い。ただ緋毛氈《ひもうせん》のかわりに、敷妙《しきたえ》の錦である。
 ことごとく、これは土地の大名、城内の縉紳《しんしん》、豪族、富商の奥よりして供えたものだと聞く。家々の紋づくしと見れば可い。
 天人の舞楽、合天井の紫のなかば、古錦襴《こきんらん》の天蓋《てんがい》の影に、黒塗に千羽鶴の蒔絵をした壇を据えて、紅白、一つおきに布を積んで、媚《なまめ》かしく堆《うずたか》い。皆新しい腹帯である。志して詣《もう》でた日に、折からその紅《くれない》の時は女の児《こ》、白い時は男の児が産れると伝えて、順を乱すことをしないで受けるのである。
 右左に大《おおき》な花瓶が据《すわ》って、ここらあたり、花屋およそ五七軒は、囲《かこい》の穴蔵を払ったかと思われる見事な花が夥多《おびただ》しい。白菊黄菊、大輪の中に、桔梗《ききょう》がまじって、女郎花《おみなえし》のまだ枯れないのは、功徳の水の恵であろう、末葉《うらは》も落ちず露がしたたる。
 時に、腹帯は紅であった。
 渠《かれ》が詣でた時、蝋燭《ろうそく》が二|挺《ちょう》灯《とも》って、その腹帯台の傍《かたわら》に、老女が一人、若い円髷《まるまげ》のと睦《むつま》じそうに拝んでいた。
 しばらくして、戸口でまた珠数を揉頂《もみいただ》いて、老女が前《さき》に、その二人が帰ったあとは、本堂、脇堂にも誰も居ない。
 ここに註《ちゅう》しておく。都会にはない事である。このあたりの寺は、どこにも、へだて、戸じまりを置かないから、朝づとめよりして夕暮までは、諸天、諸仏。――中にも爾《しか》く端麗なる貴女の奥殿に伺候《しこう》するに、門番、諸侍の面倒はいささかもないことを。
 寺は法華宗である。
 祖師堂は典正なのが同一棟《ひとつむね》に別にあって、幽厳なる夫人《ぶにん》の廟《びょう》よりその御堂《みどう》へ、細長い古畳が欄間の黒い虹《にじ》を引いて続いている。……広い廊下は、霜のように冷《つめと》うして、虚空蔵の森をうけて寂然《じゃくねん》としていた。
 風すかしに細く開いた琴柱窓《ことじまど》の一つから、森を離れて、松の樹の姿のいい、赤土山の峰が見えて、色が秋の日に白いのに、向越《むこうごし》の山の根に、きらきらと一面の姿見の光るのは、遠い湖の一部である。此方《こなた》の麓《ふもと》に薄もみじした中腹を弛《ゆる》く繞《めぐ》って、巳《み》の字の形に一つ蜒《うね》った青い水は、町中を流るる川である。町の上には霧が掛《かか》った。その霧を抽《ぬ》いて、青天に聳《そび》えたのは昔の城の天守である。
 聞け――時に、この虹の欄間に掛けならべた、押絵の有名な額がある。――いま天守を叙した、その城の奥々の婦人たちが丹誠を凝《こら》した細工である。
 万亭応賀の作、豊国|画《えがく》。錦重堂板の草双紙、――その頃江戸で出版して、文庫蔵が建ったと伝うるまで世に行われた、釈迦八相倭文庫《しゃかはっそうやまとぶんこ》の挿画《さしえ》のうち、摩耶夫人の御《おん》ありさまを、絵のまま羽二重と、友染と、綾《あや》、錦、また珊瑚《さんご》をさえ鏤《ちりば》めて肉置の押絵にした。……
 浄飯王《じょうぼんおう》が狩の道にて――天竺《てんじく》、天臂城《てんぴじょう》なる豪貴の長者、善覚の妹姫が、姉君|矯曇弥《きょうどんみ》とともに、はじめて見《まみ》ゆる処より、優陀夷《うだい》が結納の使者に立つ処、のちに、矯曇弥が嫉妬《しっと》の処。やがて夫人が、一度《ひとたび》、幻に未生《みしょう》のうない子を、病中のいためる御胸《おんむね》に、抱《いだ》きしめたまう姿は、見る目にも痛ましい。その肩にたれつつ、みどり児の頸《うなじ》を蔽《おお》う優しき黒髪は、いかなる女子のか、活髪《いきがみ》をそのままに植えてある。……
 われら町人の爺媼《じいばば》の風説《うわさ》であろうが、矯曇弥の呪詛《のろい》の押絵は、城中の奥のうち、御台、正室ではなく、かえって当時の、側室、愛妾《あいしょう》の手に成ったのだと言うのである。しかも、その側室は、絵をよくして、押絵の面描《かおかき》は皆その彩筆に成ったのだと聞くのも意味がある。
 夫人の姿像のうちには、胸ややあらわに、あかんぼのお釈迦様を抱《いだ》かるるのがあるから、――憚《はばか》りつつも謹んで説《い》おう。
 ここの押絵のうちに、夫人が姿見のもとに、黒塗の蒔絵の盥《たらい》を取って手水《ちょうず》を引かるる一面がある。真珠を雪に包んだような、白羽二重で、膚脱《はだぬぎ》の御乳《おんち》のあたりを装《も》ってある。肩も背も半身の膚《はだえ》あらわにおわする。
 牙《きば》の六つある大白象《だいびゃくぞう》の背に騎して、兜率天《とそつてん》よりして雲を下って、白衣の夫人の寝姿の夢まくらに立たせたまう一枚のと、一面やや大なる額に、かの藍毘尼園中《らんびにおんちゅう》、池に青色《せいしょく》の蓮華《れんげ》の開く処。無憂樹《むうじゅ》の花、色香|鮮麗《せんれい》にして、夫人が無憂の花にかざしたる右の手のその袖のまま、釈尊降誕の一面とは、ともに城の正室の細工だそうである。
 面影も、色も靉靆《たなび》いて、欄間の雲に浮出づる。影はささぬが、香にこぼれて、後にひかえつつも、畳の足はおのずから爪立《つまだ》たれた。
 畳廊下を引返しざまに、敷居を出る。……夫人廟《ぶにんびょう》の壇の端に、その写真の数々が重ねてあった。
 押絵のあとに、時代を違えた、写真を覘《のぞ》くのも学問である。
 清水に洗濯した美女の写真は、ただその四五枚めに早く目に着いた。円髷《まるまげ》にこそ結ったが、羽織も着ないで、女の児《こ》らしい嬰児《みどりご》を抱《いだ》いて、写真屋の椅子にかけた像《かたち》は、寸分の違いもない。
 こうした写真は、公開したもおなじである。産の安らかさに、児のすこやかさに、いずれ願ほどにあやかるため、その一枚を選んで借りて、ひそかに持帰る事を許されている。ただし遅速はおいて、複写して、夫人の御《おん》人々御中に返したてまつるべき事は言うまでもなかろう。
 今日は方々にお賽銭《さいせん》が多い。道中の心得に、新しく調えた懐中に半紙があった。
 目の露したたり、口許《くちもと》も綻《ほころ》びそうな、写真を取って、思わず、四辺《あたり》を見て半紙に包もうとした。
 トタンに人気勢《ひとけはい》がした。
 樹島はバッとあかくなった。
 猛然として憶起《おもいおこ》した事がある。八歳《やッつ》か、九歳《ここのつ》の頃であろう。雛人形《ひなにんぎょう》は活《い》きている。雛市は弥生《やよい》ばかり、たとえば古道具屋の店に、その姿があるとする。……心を籠《こ》めて、じっと凝視《みつめ》るのを、毎日のように、およそ七日十日に及ぶと、思入ったその雛、その人形は、莞爾《にっこり》と笑うというのを聞いた。――時候は覚えていない。小学校へ通う大川の橋一つ越えた町の中に、古道具屋が一軒、店に大形の女雛《めびな》ばかりが一体あった。※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けた美しさは註するに及ぶまい。――樹島は学校のかえりに極《きま》って、半時ばかりずつ熟《じっ》と凝視した。
 目は、三日四日めから、もう動くようであった。最後に、その唇の、幽冥《ゆうめい》の境より霞一重に暖かいように莞爾《にっこり》した時、小児《こども》はわなわなと手足が震えた。同時である。中仕切の暖簾《のれん》を上げて、姉さんだか、小母さんだか、綺麗《きれい》な、容子《ようす》のいい
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