ない。脱棄《ぬぎす》てた草履に早く戯るる一羽の赤蜻蛉の影でない。崖のくずれを雑樹また藪《やぶ》の中に、月夜の骸骨《がいこつ》のように朽乱れた古卒堵婆《ふるそとば》のあちこちに、燃えつつ曼珠沙華《まんじゅしゃげ》が咲残ったのであった。
 婦《おんな》は人間離れをして麗《うつく》しい。
 この時、久米の仙人を思出して、苦笑をしないものは、われらの中に多くはあるまい。
 仁王の草鞋の船を落ちて、樹島は腰の土を払って立った。面《つら》はいつの間にか伸びている。
「失礼ですが、ちょっと伺います――旅のものですが。」
「は、」
「蓮行寺《れんぎょうじ》と申しますのは?」
「摩耶夫人様のお寺でございますね。」
 その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうとい※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》の貴女の、さながらの御《おん》かしずきに対して、渠《かれ》は思わず一礼した。
 婦《おんな》はちょうど筧《かけひ》の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱《あさぎ》に雫《しずく》する花を楯《たて》に、破納屋《やれなや》の上路《のぼりみち》を指して、
「その坂をなぞえにお上りなさ
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