遅めの午飯《ひる》に、――潟で漁《と》れる――わかさぎを焼く香《におい》が、淡く遠くから匂って来た。暖か過ぎるが雨にはなるまい。赤蜻蛉の羽も、もみじを散《ちら》して、青空に透通る。鐘は高く竜頭《りゅうず》に薄霧を捲《ま》いて掛《かか》った。
清水から一坂上り口に、薪《まき》、漬もの桶《おけ》、石臼《いしうす》なんどを投遣《なげや》りにした物置の破納屋《やれなや》が、炭焼小屋に見えるまで、あたりは静《しずか》に、人の往来《ゆきき》はまるでない。
月の夜《よ》はこの納屋の屋根から霜になるであろう。その石臼に縋《すが》って、嫁菜の咲いたも可哀《あわれ》である。
ああ、桶の箍《たが》に尾花が乱るる。この麗《うらら》かさにも秋の寂しさ……
樹島は歌も句も思わずに、畑の土を、外套《がいとう》の背にずり辷《すべ》って、半ば寝つつも、金剛神の草鞋《わらじ》に乗った心持に恍惚《うっとり》した。
ふと鳥影が……影が翳《さ》した。そこに、つい目の前《さき》に、しなやかな婦《おんな》が立った。何、……紡績らしい絣《かすり》の一枚着に、めりんす友染と、繻子《しゅす》の幅狭《はばぜま》な帯をお太鼓に、上から紐《ひも》でしめて、褪《あ》せた桃色の襷掛《たすきが》け……などと言うより、腕《かいな》露呈《あらわ》に、肱《ひじ》を一杯に張って、片脇に盥《たらい》を抱えた……と言う方が早い。洗濯をしに来たのである。道端の細流《ほそながれ》で洗濯をするのに、なよやかなどと言う姿はない。――ないのだが、見ただけでなよやかで、盥《たらい》に力を入れた手が、霞を溶いたように見えた。白やかな膚《はだ》を徹《とお》して、骨まで美しいのであろう。しかも、素足に冷めし草履を穿《は》いていた。近づくのに、音のしなかったのも頷《うなず》かれる。
婦《おんな》は、水ぎわに立停《たちど》まると、洗濯盥――盥には道草に手打《たお》ったらしい、嫁菜が一束挿してあった――それを石の上へこごみ腰におろすと、すっと柳に立直った。日あたりを除《よ》けて来て、且つ汗ばんだらしい、姉《あね》さん被《かぶ》りの手拭《てぬぐい》を取って、額よりは頸脚《えりあし》を軽く拭《ふ》いた。やや俯向《うつむ》けになった頸《うなじ》は雪を欺く。……手拭を口に銜《くわ》えた時、それとはなしに、面《おもて》を人に打蔽《うちおお》う風情が見えつつ、眉を優しく、斜《ななめ》だちの横顔、瞳の濡々《ぬれぬれ》と黒目がちなのが、ちらりと樹島に移ったようである。颯《さっ》と睫毛《まつげ》を濃く俯目《ふしめ》になって、頸《えり》のおくれ毛を肱白く掻上げた。――漆にちらめく雪の蒔絵《まきえ》の指さきの沈むまで、黒く房《ふっさ》りした髪を、耳許《みみもと》清く引詰《ひッつ》めて櫛巻《くしまき》に結っていた。年紀《とし》は二十五六である。すぐに、手拭を帯に挟んで――岸からすぐに俯向くには、手を差伸《さしのば》しても、流《ながれ》は低い。石段が出来ている。苔も草も露を引いて皆青い。それを下りさまに、ふと猶予《ためら》ったように見えた。ああ、これは心ないと、見ているものの心着く時、褄《つま》を取って高く端折《はしょ》った。婦《おんな》は誰も長襦袢《ながじゅばん》を着ているとは限らない。ただ一重の布も、膝の下までは蔽わないで、小股をしめて、色薄く縊《くび》りつつ、太脛《ふくらはぎ》が白く滑《なめら》かにすらりと長く流《ながれ》に立った。
ひたひたと絡《まつわ》る水とともに、ちらちらと紅《くれない》に目を遮ったのは、倒《さかさま》に映るという釣鐘の竜の炎でない。脱棄《ぬぎす》てた草履に早く戯るる一羽の赤蜻蛉の影でない。崖のくずれを雑樹また藪《やぶ》の中に、月夜の骸骨《がいこつ》のように朽乱れた古卒堵婆《ふるそとば》のあちこちに、燃えつつ曼珠沙華《まんじゅしゃげ》が咲残ったのであった。
婦《おんな》は人間離れをして麗《うつく》しい。
この時、久米の仙人を思出して、苦笑をしないものは、われらの中に多くはあるまい。
仁王の草鞋の船を落ちて、樹島は腰の土を払って立った。面《つら》はいつの間にか伸びている。
「失礼ですが、ちょっと伺います――旅のものですが。」
「は、」
「蓮行寺《れんぎょうじ》と申しますのは?」
「摩耶夫人様のお寺でございますね。」
その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうとい※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》の貴女の、さながらの御《おん》かしずきに対して、渠《かれ》は思わず一礼した。
婦《おんな》はちょうど筧《かけひ》の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱《あさぎ》に雫《しずく》する花を楯《たて》に、破納屋《やれなや》の上路《のぼりみち》を指して、
「その坂をなぞえにお上りなさ
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