夫人利生記
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瑠璃色《るりいろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十八九年|不沙汰《ぶさた》した
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]
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瑠璃色《るりいろ》に澄んだ中空《なかぞら》の樹《こ》の間から、竜が円い口を張開いたような、釣鐘の影の裡《なか》で、密《そっ》と、美麗な婦《おんな》の――人妻の――写真を視《み》た時に、樹島《きじま》は血が冷えるように悚然《ぞっ》とした。……
山の根から湧《わ》いて流るる、ちょろちょろ水が、ちょうどここで堰《いせき》を落ちて、湛《たた》えた底に、上の鐘楼の影が映るので、釣鐘の清水と言うのである。
町も場末の、細い道を、たらたらと下りて、ずッと低い処から、また山に向って径《こみち》の坂を蜒《うね》って上る。その窪地《くぼち》に当るので、浅いが谷底になっている。一方はその鐘楼を高く乗せた丘の崖《がけ》で、もう秋の末ながら雑樹が茂って、からからと乾いた葉の中から、昼の月も、鐘の星も映りそうだが、別に札を建てるほどの名所でもない。
居まわりの、板屋、藁屋《わらや》の人たちが、大根も洗えば、菜も洗う。葱《ねぎ》の枯葉を掻分《かきわ》けて、洗濯などするのである。で、竹の筧《かけひ》を山笹《やまざさ》の根に掛けて、流《ながれ》の落口の外《ほか》に、小さな滝を仕掛けてある。汲《く》んで飲むものはこれを飲むがよし、視《なが》めるものは、観《み》るがよし、すなわち清水の名聞《みょうもん》が立つ。
径《こみち》を挟んで、水に臨んだ一方は、人の小家《こいえ》の背戸畠《せどばたけ》で、大根も葱も植えた。竹のまばら垣に藤豆の花の紫がほかほかと咲いて、そこらをスラスラと飛交わす紅蜻蛉《あかとんぼ》の羽から、……いや、その羽に乗って、糸遊、陽炎《かげろう》という光ある幻影《まぼろし》が、春の闌《たけなわ》なるごとく、浮いて遊ぶ。……
一時間ばかり前の事。――樹島は背戸畑の崩れた、この日当りの土手に腰を掛けて憩いつつ、――いま言う――その写真のぬしを正《しょう》のもので見たのである。
その前に、渠《かれ》は母の実家《さと》の檀那寺《だんなでら》なる、この辺《あたり》の寺に墓詣《はかまいり》した。
俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹《に》であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。
仁王門の柱に、大草鞋《おおわらじ》が――中には立った大人の胸ぐらいなのがある――重《かさな》って、稲束の木乃伊《みいら》のように掛《かか》っている事は、渠《かれ》が小児《こども》の時に見知ったのも、今もかわりはない。緒に結んだ状《さま》に、小菊まじりに、俗に坊さん花というのを挿して供えたのが――あやめ草あしに結ばむ――「奥の細道」の趣があって、健《すこやか》なる神の、草鞋を飾る花たばと見ゆるまで、日に輝きつつも、何となく旅情を催させて、故郷《ふるさと》なれば可懐《なつか》しさも身に沁《し》みる。
峰の松風が遠く静《しずか》に聞えた。
庫裡《くり》に音信《おとず》れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所《なっしょ》とも小僧ともいわず、すぐに下駄ばきで卵塔場へ出向わるる。
かあかあと、鴉《からす》が鳴く。……墓所《はかしょ》は日陰である。苔《こけ》に惑い、露に辷《すべ》って、樹島がやや慌《あわただ》しかったのは、余り身軽に和尚どのが、すぐに先へ立って出られたので、十八九年|不沙汰《ぶさた》した、塔婆の中の草径《くさみち》を、志す石碑に迷ったからであった。
紫|袱紗《ふくさ》の輪鉦《りん》を片手に、
「誰方《どなた》の墓であらっしゃるかの。」
少々|極《きまり》が悪く、……姓を言うと、
「おお、いま立っていさっしゃるのが、それじゃがの。」
「御不沙汰をいたして済みません。」
黙って俯向《うつむ》いて線香を供えた。細い煙が、裏すいて乱るるばかり、墓の落葉は堆《うずたか》い。湿った青苔に蝋燭《ろうそく》が刺《ささ》って、揺れもせず、燐寸《マッチ》でうつした灯がまっ直《すぐ》に白く昇《た》った。
チーン、チーン。――かあかあ――と鴉が鳴く。
やがて、読誦《どくじゅ》の声を留《とど》めて、
「お志の御|回向《えこう》はの。」
「一同にどうぞ。」
「先祖代々の諸精霊……願以此功徳無量壇波羅蜜《がんいしくどくむりょうだんはらみつ》。具足円満《ぐそくえんまん》、平等利益《びようどうりやく》――南無妙《なむみょ
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