いますと、――戸がしまっておりますが、二階家が見えましょう。――ね、その奥に、あの黒く茂りましたのが、虚空蔵様のお寺でございます。ちょうどその前の処が、青く明《あかる》くなって、ちらちらもみじが見えますわね……あすこが摩耶夫人様でございます。」
「どうもありがとう――尋ねたいにも人通りがないので困っていました。――お庇様《かげさま》で……」
「いいえ……まあ。」
「御免なさい。」
「お静《しずか》におまいりをなさいまし……御利益がございますわ。」
と、嫁菜の花を口許《くちもと》に、瞼《まぶた》をほんのり莞爾《にっこり》した。
――この婦人《おんな》の写真なのである。
写真は、蓮行寺の摩耶夫人の御堂《みどう》の壇の片隅に、千枚の歌留多《かるた》を乱して積んだような写真の中から見出《みいだ》された。たとえば千枚千人の婦女が、一人ずつ皆|嬰児《あかご》を抱いている。お産の祈願をしたものが、礼詣りに供うるので、すなわち活きたままの絵馬である。胸に抱いたのも、膝に据えたのも、中には背に負《おんぶ》したまま、両の掌《て》を合せたのもある。が、胸をはだけたり、乳房を含ませたりしたのは、さすがにないから、何も蔽《おお》わず、写真はあからさまになっている。しかし、婦《おんな》ばかりの心だしなみで、いずれも伏せてある事は言うまでもない。
この写真が、いま言った百人一首の歌留多のように見えるまで、御堂は、金碧蒼然《きんぺきそうぜん》としつつ、漆と朱の光を沈めて、月影に青い錦《にしき》を見るばかり、厳《おごそか》に端《ただ》しく、清らかである。
御厨子《みずし》の前は、縦に二十間がほど、五壇に組んで、紅《くれない》の袴《はかま》、白衣《びゃくえ》の官女、烏帽子《えぼし》、素袍《すおう》の五人|囃子《ばやし》のないばかり、きらびやかなる調度を、黒棚よりして、膳部《ぜんぶ》、轅《ながえ》の車まで、金高蒔絵《きんたかまきえ》、青貝を鏤《ちりば》めて隙間なく並べた雛壇《ひなだん》に較べて可《い》い。ただ緋毛氈《ひもうせん》のかわりに、敷妙《しきたえ》の錦である。
ことごとく、これは土地の大名、城内の縉紳《しんしん》、豪族、富商の奥よりして供えたものだと聞く。家々の紋づくしと見れば可い。
天人の舞楽、合天井の紫のなかば、古錦襴《こきんらん》の天蓋《てんがい》の影に、黒塗に千羽鶴の蒔絵をした壇を据えて、紅白、一つおきに布を積んで、媚《なまめ》かしく堆《うずたか》い。皆新しい腹帯である。志して詣《もう》でた日に、折からその紅《くれない》の時は女の児《こ》、白い時は男の児が産れると伝えて、順を乱すことをしないで受けるのである。
右左に大《おおき》な花瓶が据《すわ》って、ここらあたり、花屋およそ五七軒は、囲《かこい》の穴蔵を払ったかと思われる見事な花が夥多《おびただ》しい。白菊黄菊、大輪の中に、桔梗《ききょう》がまじって、女郎花《おみなえし》のまだ枯れないのは、功徳の水の恵であろう、末葉《うらは》も落ちず露がしたたる。
時に、腹帯は紅であった。
渠《かれ》が詣でた時、蝋燭《ろうそく》が二|挺《ちょう》灯《とも》って、その腹帯台の傍《かたわら》に、老女が一人、若い円髷《まるまげ》のと睦《むつま》じそうに拝んでいた。
しばらくして、戸口でまた珠数を揉頂《もみいただ》いて、老女が前《さき》に、その二人が帰ったあとは、本堂、脇堂にも誰も居ない。
ここに註《ちゅう》しておく。都会にはない事である。このあたりの寺は、どこにも、へだて、戸じまりを置かないから、朝づとめよりして夕暮までは、諸天、諸仏。――中にも爾《しか》く端麗なる貴女の奥殿に伺候《しこう》するに、門番、諸侍の面倒はいささかもないことを。
寺は法華宗である。
祖師堂は典正なのが同一棟《ひとつむね》に別にあって、幽厳なる夫人《ぶにん》の廟《びょう》よりその御堂《みどう》へ、細長い古畳が欄間の黒い虹《にじ》を引いて続いている。……広い廊下は、霜のように冷《つめと》うして、虚空蔵の森をうけて寂然《じゃくねん》としていた。
風すかしに細く開いた琴柱窓《ことじまど》の一つから、森を離れて、松の樹の姿のいい、赤土山の峰が見えて、色が秋の日に白いのに、向越《むこうごし》の山の根に、きらきらと一面の姿見の光るのは、遠い湖の一部である。此方《こなた》の麓《ふもと》に薄もみじした中腹を弛《ゆる》く繞《めぐ》って、巳《み》の字の形に一つ蜒《うね》った青い水は、町中を流るる川である。町の上には霧が掛《かか》った。その霧を抽《ぬ》いて、青天に聳《そび》えたのは昔の城の天守である。
聞け――時に、この虹の欄間に掛けならべた、押絵の有名な額がある。――いま天守を叙した、その城の奥々の婦人たちが丹誠を凝《こら》した細
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