工である。
万亭応賀の作、豊国|画《えがく》。錦重堂板の草双紙、――その頃江戸で出版して、文庫蔵が建ったと伝うるまで世に行われた、釈迦八相倭文庫《しゃかはっそうやまとぶんこ》の挿画《さしえ》のうち、摩耶夫人の御《おん》ありさまを、絵のまま羽二重と、友染と、綾《あや》、錦、また珊瑚《さんご》をさえ鏤《ちりば》めて肉置の押絵にした。……
浄飯王《じょうぼんおう》が狩の道にて――天竺《てんじく》、天臂城《てんぴじょう》なる豪貴の長者、善覚の妹姫が、姉君|矯曇弥《きょうどんみ》とともに、はじめて見《まみ》ゆる処より、優陀夷《うだい》が結納の使者に立つ処、のちに、矯曇弥が嫉妬《しっと》の処。やがて夫人が、一度《ひとたび》、幻に未生《みしょう》のうない子を、病中のいためる御胸《おんむね》に、抱《いだ》きしめたまう姿は、見る目にも痛ましい。その肩にたれつつ、みどり児の頸《うなじ》を蔽《おお》う優しき黒髪は、いかなる女子のか、活髪《いきがみ》をそのままに植えてある。……
われら町人の爺媼《じいばば》の風説《うわさ》であろうが、矯曇弥の呪詛《のろい》の押絵は、城中の奥のうち、御台、正室ではなく、かえって当時の、側室、愛妾《あいしょう》の手に成ったのだと言うのである。しかも、その側室は、絵をよくして、押絵の面描《かおかき》は皆その彩筆に成ったのだと聞くのも意味がある。
夫人の姿像のうちには、胸ややあらわに、あかんぼのお釈迦様を抱《いだ》かるるのがあるから、――憚《はばか》りつつも謹んで説《い》おう。
ここの押絵のうちに、夫人が姿見のもとに、黒塗の蒔絵の盥《たらい》を取って手水《ちょうず》を引かるる一面がある。真珠を雪に包んだような、白羽二重で、膚脱《はだぬぎ》の御乳《おんち》のあたりを装《も》ってある。肩も背も半身の膚《はだえ》あらわにおわする。
牙《きば》の六つある大白象《だいびゃくぞう》の背に騎して、兜率天《とそつてん》よりして雲を下って、白衣の夫人の寝姿の夢まくらに立たせたまう一枚のと、一面やや大なる額に、かの藍毘尼園中《らんびにおんちゅう》、池に青色《せいしょく》の蓮華《れんげ》の開く処。無憂樹《むうじゅ》の花、色香|鮮麗《せんれい》にして、夫人が無憂の花にかざしたる右の手のその袖のまま、釈尊降誕の一面とは、ともに城の正室の細工だそうである。
面影も、色も靉靆《たなび》いて、欄間の雲に浮出づる。影はささぬが、香にこぼれて、後にひかえつつも、畳の足はおのずから爪立《つまだ》たれた。
畳廊下を引返しざまに、敷居を出る。……夫人廟《ぶにんびょう》の壇の端に、その写真の数々が重ねてあった。
押絵のあとに、時代を違えた、写真を覘《のぞ》くのも学問である。
清水に洗濯した美女の写真は、ただその四五枚めに早く目に着いた。円髷《まるまげ》にこそ結ったが、羽織も着ないで、女の児《こ》らしい嬰児《みどりご》を抱《いだ》いて、写真屋の椅子にかけた像《かたち》は、寸分の違いもない。
こうした写真は、公開したもおなじである。産の安らかさに、児のすこやかさに、いずれ願ほどにあやかるため、その一枚を選んで借りて、ひそかに持帰る事を許されている。ただし遅速はおいて、複写して、夫人の御《おん》人々御中に返したてまつるべき事は言うまでもなかろう。
今日は方々にお賽銭《さいせん》が多い。道中の心得に、新しく調えた懐中に半紙があった。
目の露したたり、口許《くちもと》も綻《ほころ》びそうな、写真を取って、思わず、四辺《あたり》を見て半紙に包もうとした。
トタンに人気勢《ひとけはい》がした。
樹島はバッとあかくなった。
猛然として憶起《おもいおこ》した事がある。八歳《やッつ》か、九歳《ここのつ》の頃であろう。雛人形《ひなにんぎょう》は活《い》きている。雛市は弥生《やよい》ばかり、たとえば古道具屋の店に、その姿があるとする。……心を籠《こ》めて、じっと凝視《みつめ》るのを、毎日のように、およそ七日十日に及ぶと、思入ったその雛、その人形は、莞爾《にっこり》と笑うというのを聞いた。――時候は覚えていない。小学校へ通う大川の橋一つ越えた町の中に、古道具屋が一軒、店に大形の女雛《めびな》ばかりが一体あった。※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けた美しさは註するに及ぶまい。――樹島は学校のかえりに極《きま》って、半時ばかりずつ熟《じっ》と凝視した。
目は、三日四日めから、もう動くようであった。最後に、その唇の、幽冥《ゆうめい》の境より霞一重に暖かいように莞爾《にっこり》した時、小児《こども》はわなわなと手足が震えた。同時である。中仕切の暖簾《のれん》を上げて、姉さんだか、小母さんだか、綺麗《きれい》な、容子《ようす》のいい
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