なかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩《うどん》で虐待した理由《わけ》というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路《しんしゅうじ》を経歴《へめぐ》って、その旅館には五月《いつつき》あまりも閉じ籠《こ》もった。滞《とどこお》る旅籠代《はたごだい》の催促もせず、帰途《かえり》には草鞋銭《わらじせん》まで心着けた深切な家《うち》だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お麁末《そまつ》なことでして。」
と紺の鯉口《こいぐち》に、おなじ幅広の前掛けした、痩《や》せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀《りちぎ》らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際《ふすまぎわ》に畏《かしこ》まった。
「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」
「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束《ふつつか》でございまして。……それに、かような山家辺鄙《やまがへんぴ》で、一向お口に合いますものもございませんで。」
「とんでもないこと。
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