すが、代官婆。……渾名《あだな》で分かりますくらいおそろしく権柄《けんべい》な、家の系図を鼻に掛けて、俺《おら》が家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了簡《りょうけん》でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……伜《せがれ》どのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一頃《ひところ》は東京|住居《ずまい》をしておりましたが、何でも一旦《いったん》微禄《びろく》した家を、故郷《ふるさと》に打《ぶ》っ開《ぱだ》けて、村中の面《つら》を見返すと申して、估券《こけん》潰《つぶ》れの古家を買いまして、両三年|前《ぜん》から、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄子《なすび》などは料理に醤油《したじ》が費《つい》え、だという倹約で、葱《ねぶか》、韮《にら》、大蒜《にんにく》、辣薤《らっきょう》と申す五|薀《うん》の類《たぐい》を、空地《あきち》中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が臭《にお》います。大蒜屋敷の代官婆。……
ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優《やさ》しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方《かた》で、鋤《すき》にも、鍬《くわ》にも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画師《えかき》だそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁《に》げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染《なじみ》が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬《よこぞっぽ》を撲《くら》わしたはいいが、御先祖、お両親《ふたおや》の位牌《いはい》にも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から門《かど》を駈け出したは出たとして、知合《ちかづき》にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き処《どころ》がなかったので、一夜《ひとよ》しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師《えかき》さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが叶《かな》ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟《くっきょう》なのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通《まおとこ》騒ぎが起こったのでございます。」
と料理番は一息した。
「そこで……また代官|婆《ばば》に変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、葱《ねぶか》が枯れたと言っては村役場だ、小児《こども》が睨《にら》んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上沙汰《かみざた》にさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴客《あなた》、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、大蒜《にんにく》屋敷の雁股《かりまた》へ掛かります、この街道《かいどう》、棒鼻《ぼうばな》の辻《つじ》に、巌穴《いわあな》のような窪地《くぼち》に引っ込んで、石松という猟師が、小児《がき》だくさんで籠《こ》もっております。四十|親仁《おやじ》で、これの小僧の時は、まだ微禄《びろく》をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房《かかあ》も女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵《よい》の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半《よなか》を掛けて積もりました。山の、猪《しし》、兎《うさぎ》が慌《あわ》てます。猟はこういう時だと、夜更《よふ》け
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