眉かくしの霊
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木曾街道《きそかいどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一五八|哩《マイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《おこ》って、
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      一

 木曾街道《きそかいどう》、奈良井《ならい》の駅は、中央線起点、飯田町《いいだまち》より一五八|哩《マイル》二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛《ひざくりげ》を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。
 ここは弥次郎兵衛《やじろべえ》、喜多八《きだはち》が、とぼとぼと鳥居峠《とりいとうげ》を越すと、日も西の山の端《は》に傾きければ、両側の旅籠屋《はたごや》より、女ども立ち出《い》でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂《ふろ》も湧《わ》いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう姐《ねえ》さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお飯《まんま》でも、蕎麦《そば》でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六|銭《もん》でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落《しゃれ》かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも凄《すさ》まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙《むざん》や、なけなしの懐中《ふところ》を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気《しょげ》返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町《たんすまち》引出し横町、取手屋《とってや》の鐶兵衛《かんべえ》とて、工面のいい馴染《なじみ》に逢《あ》って、ふもとの山寺に詣《もう》でて鹿《しか》の鳴き声を聞いた処《ところ》……
 ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場《ステエション》を、もう汽車が出ようとする間際《まぎわ》だったと言うのである。
 この、筆者の友、境賛吉《さかいさんきち》は、実は蔦《つた》かずら木曾《きそ》の桟橋《かけはし》、寝覚《ねざめ》の床《とこ》などを見物のつもりで、上松《あげまつ》までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二|膳《ぜん》)には不思議な縁がありましたよ……」
 と、境が話した。
 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻《しおじり》から分岐点《のりかえ》で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩《ゆる》んでちと辻褄《つじつま》が合わない。何も穿鑿《せんさく》をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪《むさぼ》った旅行《たび》で、行途《ゆき》は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、熊《くま》の平《たいら》、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠《しの》の井《い》線に乗り替えて、姨捨《おばすて》田毎《たごと》を窓から覗《のぞ》いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温《なまぬる》い渋茶一杯|汲《く》んだきりで、お夜食ともお飯《まんま》とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀《したん》だ。火鉢《ひばち》は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子《ちょうし》をと云《い》うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中《ねえさん》の素気《そっけ》なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中|寂寞《ひっそり》とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒《ビイル》でも。それもお気の毒
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