様だと言う。姐《ねえ》さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場《ステエション》から、震えながら俥《くるま》でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓《ゆうかく》らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈《あんどん》もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合|罎《びん》を、次郎どのの狗《いぬ》ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息《おおためいき》とともに空《す》き腹《ばら》をぐうと鳴らして可哀《あわれ》な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、肴《さかな》もなし……お飯《まんま》は。いえさ、今晩の旅籠《はたご》の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の怨《うら》みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪《きっかい》である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面《けんかづら》で、宿を替えるとも言われない。前世《ぜんせ》の業《ごう》と断念《あきら》めて、せめて近所で、蕎麦《そば》か饂飩《うどん》の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁《に》げ腰《ごし》のもったて尻《じり》で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝《ひざ》を、ぬいと引っこ抜いて不精《ぶしょう》に出て行く。
待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、丼《どんぶり》がたった一つ。腹の空《す》いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰《なじ》るように言うと、へい、二ぜん分、装《も》り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児《ままっこ》のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋《ふた》を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁《したじ》がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
この旅館が、秋葉山《あきばさん》三尺坊が、飯綱《いいづな》権現へ、客を、たちもの[#「たちもの」に傍点]にしたところへ打撞《ぶつか》ったのであろう、泣くより笑いだ。
その……饂飩二ぜんの昨夜《ゆうべ》を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠《ゆうはたご》の蕎麦二ぜんに思い較《くら》べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
日あしも木曾の山の端《は》に傾いた。宿《しゅく》には一時雨《ひとしぐれ》さっとかかった。
雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便《たよ》らないで、洋傘《かさ》で寂しく凌《しの》いで、鴨居《かもい》の暗い檐《のき》づたいに、石ころ路《みち》を辿《たど》りながら、度胸は据《す》えたぞ。――持って来い、蕎麦二|膳《ぜん》。で、昨夜の饂飩は暗討《やみう》ちだ――今宵《こよい》の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子《ガラス》張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠《やまかご》と干菜《ひば》を釣《つ》るし、土間の竈《かまど》で、割木《わりぎ》の火を焚《た》く、侘《わび》しそうな旅籠屋を烏《からす》のように覗《のぞ》き込み、黒き外套《がいとう》で、御免と、入ると、頬冠《ほおかぶ》りをした親父《おやじ》がその竈の下を焚いている。框《かまち》がだだ広く、炉が大きく、煤《すす》けた天井に八間行燈《はちけん》の掛かったのは、山駕籠と対《つい》の註文《ちゅうもん》通り。階子下《はしごした》の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
「いらっせえ。」
蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃《いんぎん》に会釈《えしゃく》をされたのは、焼麸《やきふ》だと思う(しっぽく)の加料《かやく》が蒲鉾《かまぼこ》だったような気がした。
「お客様だよ――鶴《つる》の三番。」
女中も、服装《みなり》は木綿《もめん》だが、前垂《まえだれ》がけのさっぱりした、年紀《とし》の少《わか》い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀《よ》じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の誂《あつら》えにもいささかの厭味《いやみ》がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
敷蒲団《しきぶとん》の綿も暖かに、熊《くま》の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路《とうげじ》で売っていた、猿《さる》の腹ごもり、大蛇《おろち》の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽《おどけ》た殿様になって件《くだん》の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能《だいじゅう》へ火を入れて女中《ねえ》さんが上がって来て、惜し気もな
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