で承わらないで、私《てまい》が申したのでございます。
論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私《てまい》が一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺麗《きれい》に咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗《まっききょう》の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
四年あとになりますが、正午《まひる》というのに、この峠向うの藪原宿《やぶはらじゅく》から火が出ました。正午《しょううま》の刻《こく》の火事は大きくなると、何国《いずこ》でも申しますが、全く大焼けでございました。
山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七条《ななすじ》にも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間《やまあい》の滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大南風《おおみなみ》の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈《か》けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私《てまい》なぞは見物の方で、お社《やしろ》前は、おなじ夥間《なかま》で充満《いっぱい》でございました。
二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処《ところ》ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧《わ》いている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、私《てまい》陰気もので、あまり若衆《わかしゅ》づきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉檜《すぎひのき》の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗《ききょう》でへりを取った百畳敷ばかりの真青《まっさお》な池が、と見ますと、その汀《みぎわ》、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
お髪《ぐし》がどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の凄《すご》さ、可恐《おそろ》しさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御酒《ごしゅ》が氷になって胸へ沁《し》みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体《もったい》ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視《なが》めまして、その面影《おもかげ》を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼《はね》の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私《てまい》がその顔の色と、怯《おび》えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩《ひとなだれ》になって遁《に》げ下《お》りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇《だいじゃ》がさっと追ったようで、遁げた私《てまい》は、野兎《のうさぎ》の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様《おんながみさま》とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私《てまい》はただ目が暗んでしまいましたが、前々《ぜんぜん》より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉《まゆ》をおとしていらっしゃりまするそうで……」
境はゾッとしながら、かえって炬燵《こたつ》を傍《わき》へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端《は》、花の麓路《ふもとじ》、螢《ほたる》の影、時雨《しぐれ》の提灯《ちょうちん》、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口《ちょく》を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家《やまが》へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」
五
「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通《まおとこ》事件がございました。
村入りの雁股《かりまた》と申す処《ところ》に(代官|婆《ばば》)という、庄屋《しょうや》のお婆《ばあ》さんと言えば、まだしおらしく聞こえま
前へ
次へ
全17ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング