る。
 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯《ばん》はいい加減で膳を下げた。
 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが止《や》むと、お米が襖《ふすま》から円《まる》い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭《てぬぐい》を提《さ》げて出た。
 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中|頭《がしら》か、それとも女房かと思う老けた婦《おんな》と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団《ひとかたまり》になってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋《たび》まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐《ふところ》へ飛び込むように一団《ひとかたまり》。
「御苦労様。」
 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検《しら》べたのだと思うから声を掛けると、一度に揃《そろ》ってお時儀をして、屋根が萱《かや》ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊《いっせい》にパッと消えたのである。
 と胸を吐《つ》くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯《ちょうちん》が朦朧《もうろう》と、半ば暗く、巴《ともえ》を一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰《なまず》の跳《は》ねたか、と思う形に点《とも》れていた。
 いまにも電燈が点《つ》くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫《しずく》して、下の板敷の濡《ぬ》れたのに、目の加減で、向うから影が映《さ》したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第《わけ》ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
 爪《つま》さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞《ひっそり》しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴《したた》るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢《けはい》である。
 ばちゃん、……ちゃぶりと微《かす》かに湯が動く。とまた得ならず艶《えん》な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉《おしろい》を包んだような、人膚《ひとはだ》の気がすッと肩に絡《まつ》わって、頸《うなじ》を撫《な》でた。
 脱ぐはずの衣紋《えもん》をかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
 と一呼吸《ひといき》間《ま》を置いて、湯どのの裡《なか》から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
 洗面所の水の音がぴったりやんだ。
 思わず立ち竦《すく》んで四辺《あたり》を見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」

「いけません。」
 と澄みつつ、湯気に濡《ぬ》れ濡《ぬ》れとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」
 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
 不気味より、凄《すご》いより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵《こたつ》へ仰向けにひっくり返った。
 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の掻《か》き攪《みだ》さるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚《うお》を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処《ところ》に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

      三

「どっちです、白鷺《しらさぎ》かね、五位鷺《ごいさぎ》かね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
 料理番の伊作は来て、窓下の戸際《とぎわ》に、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
 言《ことば》の中にも顕《あら》わ
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