れる、雪の降りやんだ、その雲の一方は漆《うるし》のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、旦那《だんな》、池の水の涸《か》れるところを狙《ねら》うんでございます。鯉《こい》も鮒《ふな》も半分|鰭《ひれ》を出して、あがきがつかないのでございますから。」
「怜悧《りこう》な奴《やつ》だね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――魚《うお》が可哀相《かわいそう》でございますので……そうかと言って、夜一夜《よっぴて》、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文《ごちゅうもん》の時刻でございますから、何か、不手際《ふてぎわ》なものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子《かかし》になるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
 と、あとを口こごとで、空を睨《にら》みながら、枝をざらざらと潜《くぐ》って行く。
 境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚《うお》を狩る状《さま》を、さながら、炬燵で見るお伽話《とぎばなし》の絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間《すきま》からか雪とともに、鷺が起《た》ち込んで浴《ゆあ》みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
 そのままじっと覗《のぞ》いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖《そで》の傍《わき》を、ふわりと巴の提灯が点《つ》いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁《ぬれえん》か、戸口に入りそうだ、と思うまで距《へだ》たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱《かや》屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを点《とも》れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
 トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬《こわ》く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚《えりあし》がスッと白い。
 違《ちが》い棚《だな》の傍《わき》に、十畳のその辰巳《たつみ》に据《す》えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花《さざんか》の悄《しお》れたかと思う、濡《ぬ》れたように、しっとりと身についた藍鼠《あいねずみ》の縞小紋《しまこもん》に、朱鷺色《ときいろ》と白のいち松のくっきりした伊達巻《だてまき》で乳の下の縊《くび》れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様《すそもよう》が軽《かろ》く靡《なび》いて、片膝《かたひざ》をやや浮かした、褄《つま》を友染《ゆうぜん》がほんのり溢《こぼ》れる。露の垂《た》りそうな円髷《まるまげ》に、桔梗色《ききょういろ》の手絡《てがら》が青白い。浅葱《あさぎ》の長襦袢《ながじゅばん》の裏が媚《なまめ》かしく搦《から》んだ白い手で、刷毛《はけ》を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
 境は起《た》つも坐《い》るも知らず息を詰めたのである。
 あわれ、着た衣《きぬ》は雪の下なる薄もみじで、膚《はだ》の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚《えりあし》を、すらりと引いて掻《か》き合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙《かみ》を取って、くるくると丸げて、掌《てのひら》を拭《ふ》いて落としたのが、畳へ白粉《おしろい》のこぼれるようであった。
 衣摺《きぬず》れが、さらりとした時、湯どのできいた人膚《ひとはだ》に紛《まが》うとめきが薫《かお》って、少し斜めに居返《いがえ》ると、煙草《たばこ》を含んだ。吸い口が白く、艶々《つやつや》と煙管《きせる》が黒い。
 トーンと、灰吹の音が響いた。
 きっと向いて、境を見た瓜核顔《うりざねがお》は、目《ま》ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは凄《すご》いよう。――気の籠《こ》もった優しい眉《まゆ》の両方を、懐紙《かみ》でひたと隠して、大きな瞳《ひとみ》でじっと視《み》て、
「……似合いますか。」
 と、莞爾《にっこり》した歯が黒い。と、莞爾しながら、褄《つま》を合わせざまにすっくりと立った。顔が
前へ 次へ
全17ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング