迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一|尾《ぴき》か二|尾《ひき》で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用《いりよう》だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番《あのひと》は、この池のを大事にして、可愛《かわい》がって、そのせいですか、隙《ひま》さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお誂《あつら》えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
 雪の頂から星が一つ下がったように、入相《いりあい》の座敷に電燈の点《つ》いた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐに膳《ぜん》を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉《と》を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯《ちょうちん》が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚|扉《ひらき》があって閉まっていた。その裡《なか》が湯どのらしい。
「半作事《はんさくじ》だと言うから、まだ電燈《でんき》が点かないのだろう。おお、二《ふた》つ巴《どもえ》の紋だな。大星だか由良之助《ゆらのすけ》だかで、鼻を衝《つ》く、鬱陶《うっとう》しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛《ちょうあい》を思い出させるから奥床しい。」
 と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢《けはい》がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
 境はためらった。
 が、いつでもかまわぬ。……他《ひと》が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟《はさ》んで、ずッと寄って、その提灯の上から、扉《と》にひったりと頬《ほお》をつけて伺うと、袖《そで》のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭《ろうそく》が、またぽうと明《あか》くなる。影が痣《あざ》になって、巴が一つ片頬《かたほ》に映るように陰気に沁《し》み込む、と思うと、ばちゃり……内端《うちわ》に湯が動いた。何の隙間《すきま》からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉《おしろい》の香がする。
「婦人《おんな》だ」
 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も跨《また》ぎかねまい。乳に打着《ぶつ》かりかねまい。で、ばたばたと草履《ぞうり》を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
 通いが遠い。ここで燗《かん》をするつもりで、お米がさきへ銚子《ちょうし》だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにお腹《なか》がすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除《そうじ》かたがた旦那様《だんなさま》に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音《あしおと》を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈《か》け出した。
 境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
 やがて膳《ぜん》を持って顕《あら》われたのが……お米でない、年増《としま》のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
 行商人と、炬燵《こたつ》で睦《むつ》まじかったのはこれである。
「御亭主《ごていしゅ》はどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
 半ば串戯《じょうだん》に、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病《おくびょう》なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方《あなた》。」
「いや、結構。」
 お酌《しゃく》はこの方が、けっく飲め
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