口《みずぐち》があるのにそのどれを捻《ひね》っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍《い》てたのかと思って、谺《こだま》のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、汲《く》み込《こ》みます。」と駈《か》け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢《ちょうずばち》がないから、洗面所の一つを捻《ひね》ったが、その時はほんのたらたらと滴《したた》って、辛《かろ》うじて用が足りた。
 しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵《こたつ》から潜《もぐ》り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗《のぞ》くと、三ツの水道口《みずぐち》、残らず三条《みすじ》の水が一齊《いちどき》にざっと灌《そそ》いで、徒《いたず》らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ処《ところ》につくねんと彳《たたず》んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
 またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと涸《か》れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
 いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、嫌《きら》いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
 境はまた廊下へ出た。果して、三条とも揃《そろ》って――しょろしょろと流れている。「旦那《だんな》さん、お風呂《ふろ》ですか。」手拭《てぬぐい》を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台|十能《じゅうのう》を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが湧《わ》きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍《わき》の西洋扉《せいようど》が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵《むしろ》がこいにしたのもあり、足場を組んだ処《ところ》があり、材木を積んだ納屋《なや》もある。が、荒れた厩《うまや》のようになって、落葉に埋《う》もれた、一帯、脇本陣《わきほんじん》とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、桑《くわ》も蚕《かいこ》も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川《にえがわ》はその昔は、煮え川にして、温泉《いでゆ》の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰《さた》やみになったことなど、あとで分《わ》かった。「女中《ねえ》さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の栓《せん》を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを視《み》て、たまらず詰《なじ》るように言ったが、ついでにこの仔細《しさい》も分かった。……池は、樹《き》の根に樋《とい》を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸《みずが》れがあって、池の水が干《ひ》ようとする。鯉《こい》も鮒《ふな》も、一処《ひとところ》へ固まって、泡《あわ》を立てて弱るので、台所の大桶《おおおけ》へ汲《く》み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜《くぐ》らして、池へ流し込むのだそうであった。
 木曾道中の新版を二三種ばかり、枕《まくら》もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜《もぐ》って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々《ういうい》しくちょっと俯向《うつむ》くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯《ひる》を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨《にら》んで行きました。どうも、鯉のふとり工合《ぐあい》を鑑定《めきき》したものらしい……きっと今晩の御馳走《ごちそう》だと思うんだ。――昨夜《ゆうべ》の鶫《つぐみ》じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎《まないた》で輪切りは酷《ひど》い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
 活《いき》づくりはお断わりだが、実は鯉汁《こいこく》大歓
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