っていたけれど、逢いたくッて、実はね、私が。」
 といいかかれる時、犬二三頭高く吠《ほ》えて、謙三郎を囲めるならんか、叱《し》ッ叱ッと追うが聞えつ。
 更に低まりたる音調の、風なき夜半《よわ》に弱々しく、
「実はね、叔母さんに無理を謂って、逢わねばならないようにしてもらいたかった。だからね、私にどんなことがあろうとも叔母さんが気にかけないように。」
 と謂う折しも凄《すさ》まじく大戸にぶつかる音あり。
「あ、痛。」
 と謙三郎の叫びたるは、足や咬《か》まれし、手やかけられし、犬の毒牙《どくが》にかかれるならずや。あとは途ぎれてことばなきに、お通はあるにもあられぬ思い、思わず起《た》って駈出《かけい》でしが、肩肱いかめしく構えたる、伝内を一目見て、蒼《あお》くなりて立竦《たちすく》みぬ。
 これを見、彼を聞きたりし、伝内は何とかしけむ、つと身を起して土間に下立《おりた》ち、ハヤ懸金《かけがね》に手を懸けつ。
「ええ、た、た、たまらねえたまらねえ、一か八かだ、逢わせてやれ。」
 とがたりと大戸引開けたる、トタンに犬あり、颯《さっ》と退《の》きつ。
 懸寄るお通を伝内は身をもて謙三郎にへだてつつ、謙三郎のよろめきながら内に入《い》らんとあせるを遮り、
「うんや、そう[#「そう」は底本では「さう」]やすやすとは入《い》れねえだ。旦那様のいいつけで三原伝内が番する間《うち》は、敷居も跨《また》がすこっちゃあねえ。断《たっ》て入るなら吾《おれ》を殺せ。さあ、すっぱりとえぐらっしゃい。ええ、何を愚図《ぐず》々々、もうお前様方《めえさまがた》のように思い詰《つめ》りゃ、これ、人一人殺されねえことあねえ筈《はず》だ。吾、はあ、自分で腹あ突いちゃあ、旦那様に済まねえだ。済まねえだから、死なねえだ、死なねえうちは邪魔アするだ。この邪魔物を殺さっしゃい、七十になる老夫《おやじ》だ。殺し惜《おし》くもねえでないか。さあ、やらっしゃい。ええ! 埒《らち》のあかぬ。」
 と両手に襟を押開けて、仰様《のけざま》に咽喉仏《のどぼとけ》を示したるを、謙三郎はまたたきもせで、ややしばらく瞶《みつ》めたるが、銃剣|一閃《いっせん》し、暗《やみ》を切って、
「許せ!」
 という声もろとも、咽喉《のんど》に白刃《しらは》を刺されしまま、伝内はハタと僵《たお》れぬ。
 同時に内に入らんとせし、謙三郎は敷居につまずき、土間に両手をつきざまに俯伏《うつぶし》になりて起きも上らず。お通はあたかも狂気のごとく、謙三郎に取縋《とりすが》りて、
「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった。」
 と肩に手を懸け膝に抱《いだ》ける、折から靴音、剣摩の響《ひびき》。五六名どやどやと入来《いりきた》りて、正体もなき謙三郎をお通の手より奪い取りて、有無を謂わせず引立《ひった》つるに、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》とばかり跳起《はねお》きたるまま、茫然として立ちたるお通の、歯をくいしばり、瞳を据えて、よろよろと僵《たお》れかかれる、肩を支えて、腕を掴《つか》みて、
「汝《うぬ》、どうするか、見ろ、太い奴だ。」
 これ婚姻の当夜以来、お通がいまだ一たびも聞かざりし鬱《うつ》し怒《いか》れる良人の声なり。

       四

 出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。
 謙三郎の死したる後《のち》も、清川の家における居馴れし八畳の渠《かれ》が書斎は、依然として旧態を更《あらた》めざりき。
 秋の末にもなりたれば、籐筵《とうむしろ》に代うるに秋野の錦《にしき》を浮織《うきおり》にせる、花毛氈《はなもうせん》をもってして、いと華々しく敷詰めたり。
 床なる花瓶の花も萎《しぼ》まず、西向の※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》の下《もと》なりし机の上も片づきて、硯《すずり》の蓋《ふた》に塵《ちり》もおかず、座蒲団《ざぶとん》を前に敷き、傍《かたわら》なる桐火桶《きりひおけ》に烏金《しゃくどう》の火箸《ひばし》を添えて、と見ればなかに炭火も活《い》けつ。
 紫《し》たんの角《かく》の茶盆の上には幾個の茶碗を俯伏《うつぶ》せて、菓子を装《も》りたる皿をも置けり。
 机の上には一葉の、謙三郎の写真を祭り、あたりの襖《ふすま》を閉切りたれば、さらでも秋の暮なるに、一室|森《しん》とほのあかるく四隅はようよう暗くなりて、ものの音さえ聞えざるに、火鉢に懸けたる鉄瓶の湯気のみ薄く立のぼりて、湯の沸《たぎ》る音|静《しずか》なり。折から彼方《かなた》より襖を明けつ。一脈の風の襲入《おそいい》りて、立昇る湯気の靡《なび》くと同時に、陰々たるこの書斎をば真白き顔の覗《のぞ》きしが、
「謙さん。」
 と呼び懸けつ。裳《もすそ》すらすら入りざま、ぴたと襖を立籠《たてこ》めて、室《へや》の中央《なかば》に進み寄り、愁然《しゅうぜん》として四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》し、坐りもやらず、頤《おとがい》を襟に埋《うず》みて悄然《しょうぜん》たる、お通の俤《おもかげ》窶《やつ》れたり。
 やがて桐火桶の前に坐して、亡き人の蒲団を避《よ》けつつ、その傍《そば》に崩折《くずお》れぬ。
「謙さん。」
 とまた低声《こごえ》に呼びて、もの驚きをしたらんごとく、肩をすぼめて首低《うなだ》れつ。鉄瓶にそと手を触れて、
「おお、よく沸いてるね。」
 と茶盆に眼を着け、その蓋を取のけ、冷《ひやや》かなる吸子《きゅうす》の中を差覗《さしのぞ》き、打悄《うちしお》れたる風情にて、
「貴下《あなた》、お茶でも入れましょうか。」
 と写真を、じっと瞻《みまも》りしが、はらはらと涙を溢《こぼ》して、その後はまたものいわず、深き思《おもい》に沈みけむ、身動きだにもなさざりき。
 落葉さらりと障子を撫でて、夜はようやく迫りつつ、あるかなきかのお通の姿も黄昏《たそがれ》の色に蔽《おお》われつ。炭火のじょうの動く時、いかにしてか聞えつらむ。
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。
 再び、
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。お通は黙想の夢より覚めて、声する方《かた》を屹《きっ》と仰ぎぬ。
「ツウチャン。」
 とまた繰返せり。お通はうかうかと立起《たちあが》りて、一歩を進め、二歩を行《ゆ》き、椽側に出《い》で、庭に下り、開け忘れたりし裏の非常口よりふらふらと立出でて、いずこともなく歩み去りぬ。
 かくて幾分時のその間、足のままに※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》えりし、お通はふと心着きて、
「おや、どこへ来たんだろうね。」
 とその身みずからを怪《あやし》みたる、お通は見るより色を変えぬ。
 ここぞ陸軍の所轄に属する埋葬地の辺《あたり》なりける。
 銃殺されし謙三郎もまた葬られてここにあり。
 かの夜《よさ》、お通は機会を得て、一たび謙三郎と相抱き、互に顔をも見ざりしに、意中の人は捕縛されつ。
 その時既に精神的絶え果つべかりし玉の緒を、医療の手にて取留められ、活《い》くるともなく、死すにもあらで、やや二ヶ月を過ぎつる後《のち》、一日重隆のお通を強いて、ともに近郊に散策しつ。
 小高き丘に上りしほどに、ふと足下《あしもと》に平地ありて広袤《こうぼう》一円十町余、その一端には新しき十字架ありて建てるを見たり。
 お通は見る眼も浅ましきに、良人は予《あらかじ》め用意やしけむ、従卒に持って来させし、床几《しょうぎ》をそこに押並べて、あえてお通を抑留して、見る目を避くるを許さざりき。
 武歩たちまち丘下《きゅうか》に起りて、一中隊の兵員あり。樺色《かばいろ》の囚徒の服着たる一個の縄附を挟《さしはさ》みて眼界近くなりけるにぞ、お通は心から見るともなしに、ふとその囚徒を見るや否や、座右《ざう》の良人を流眄《ながしめ》に懸けつ。かつて「どうするか見ろ」と良人がいいし、それは、すなわちこれなりしよ。お通は十字架を一目見てしだに、なお且つ震いおののける先の状《さま》には引変えて、見る見る囚徒が面縛《めんばく》され、射手の第一、第二弾、第三射撃の響《ひびき》とともに、囚徒が固く食いしぼれる唇を洩《もれ》る鮮血の、細く、長くその胸間に垂れたるまで、お通は瞬《またたき》もせず瞻《みまも》りながら、手も動かさず態《なり》も崩さず、石に化したるもののごとく、一筋二筋頬にかかれる、後毛《おくれげ》だにも動かさざりし。
 銃殺全く執行されて、硝烟《しょうえん》の香の失《う》せたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地|好《よ》げに髯《ひげ》を捻《ひね》りて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
 と片頬に微笑を含みてき。お通はその時|蒼《あお》くなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時《なんどき》でも。」
 尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
 と激しくいいすくめつ。お通の首《うなじ》の低《た》るるを見て、
「従卒、家《うち》まで送ってやれ。」
 命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れて起《た》つことをだに得《え》せざりしなり。
 かくてその日の悲劇は終りつ。
 お通は家に帰りてより言行ほとんど平時《つね》のごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采《ふうさい》と態度とを失うことをなさざりき。
 しかりし後《のち》、いまだかつて許されざりし里帰《さとがえり》を許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下《しっか》に来《きた》るとともに、張詰めし気の弛《ゆる》みけむ、渠《かれ》はあどけなきものとなりて、泣くも笑うも嬰児《あかご》のごとく、ものぐるおしき体《てい》なるより、一日のばしにいいのばしつ。母は女《むすめ》を重隆の許《もと》に返さずして、一月|余《あまり》を過してき。
 されば世に亡き謙三郎の、今も書斎に在《いま》すがごとく、且つ掃き、且つ拭《ぬぐ》い、机を並べ、花を活け、茶を煎《せん》じ、菓子を挟むも、みなこれお通が堪えやらず忍びがたなき追慕の念の、その一端をもらせるなる。母は女《むすめ》の心を察して、その挙動のほとんど狂者のごときにもかかわらず、制し、且つ禁ずることを得ざりしなり。

       五

 お通は琵琶ぞと思いしなる、名を呼ぶ声にさまよい出でて、思わず謙三郎の墳墓なる埋葬地の間近に来り、心着けば土饅頭《どまんじゅう》のいまだ新らしく見ゆるにぞ、激しく往時を追懐して、無念、愛惜《あいじゃく》、絶望、悲惨、そのひとつだもなおよく人を殺すに足る、いろいろの感情に胸をうたれつ。就中《なかんずく》重隆が執念《しゅうね》き復讐の企《くわだて》にて、意中の人の銃殺さるるを、目前我身に見せしめ、当時の無念禁ずるあたわず。婦人《おんな》の意地と、張《はり》とのために、勉めて忍びし鬱憤《うっぷん》の、幾十倍の勢《いきおい》をもって今満身の血を炙《あぶ》るにぞ、面《おもて》は蒼ざめ紅《くれない》の唇|白歯《しらは》にくいしばりて、ほとんどその身を忘るる折から、見遣る彼方《かなた》の薄原《すすきはら》より丈高き人物|顕《あらわ》れたり。
 濶歩《かっぽ》埋葬地の間をよぎりて、ふと立停《たちどま》ると見えけるが、つかつかと歩をうつして、謙三郎の墓に達《いた》り、足をあげてハタと蹴り、カッパと唾《つば》をはきかけたる、傍若無人の振舞の手に取るごとく見ゆるにぞ、意気|激昂《げきこう》して煙りも立たんず、お通はいかで堪うべき。
 駈寄る婦人《おんな》の跫音《あしおと》に、かの人物は振返りぬ。これぞ近藤重隆なりける。
 渠《かれ》は旅団の留守なりし、いま山狩の帰途《かえるさ》なり。ハタと面を合せる時、相隔ること三十歩、お通がその時の形相はいかに凄《すさ》まじきものなりしぞ尉官は思わず絶叫して、
「殺す! 吾《おれ》を、殺す※[#感嘆符三つ、214−10]」
 というよりはやく、弾装《たまごめ》したる猟銃を、戦《おのの》きながら差向けつ。
 矢や銃弾も中
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