頬にかかれる、後毛《おくれげ》だにも動かさざりし。
銃殺全く執行されて、硝烟《しょうえん》の香の失《う》せたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地|好《よ》げに髯《ひげ》を捻《ひね》りて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
と片頬に微笑を含みてき。お通はその時|蒼《あお》くなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時《なんどき》でも。」
尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
と激しくいいすくめつ。お通の首《うなじ》の低《た》るるを見て、
「従卒、家《うち》まで送ってやれ。」
命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れて起《た》つことをだに得《え》せざりしなり。
かくてその日の悲劇は終りつ。
お通は家に帰りてより言行ほとんど平時《つね》のごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采《ふうさい》と態度とを失うことをなさざりき。
しかりし後《のち》、いまだかつて許されざりし里帰《さとがえり》を許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下《しっか》に来《きた》るとともに、張詰めし気の弛《ゆる》みけむ、渠《かれ》はあ
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