椽側に立ちたるが、あわれ消残る樹間《このま》の雪か、緑翠《りょくすい》暗きあたり白き鸚鵡の見え隠れに、蜩《ひぐらし》一声鳴きける時、手をもって涙を拭《ぬぐ》いつつ徐《しずか》に謙三郎を顧みたり。
「いいえね、未練が出ちゃあ悪いから、もうあの声を聞くまいと思って。……」
 叔母は涙の声を飲みぬ。
 謙三郎は羞《は》じたる色あり。これが答はなさずして、胸の間の釦鈕《ボタン》を懸けつ。
「さようなら参ります。」
 とつかつかと書斎を出《い》でぬ。叔母は引添うごとくにして、その左側に従いつつ、歩みながら口早に、
「可《い》いかい、先刻《さっき》謂ったことは違えやしまいね。」
「何ですか。お通さんに逢って行《ゆ》けとおっしゃった、あのことですか。」
 謙三郎は立留《たちどま》りぬ。
「ああ、そのこととも、お前、軍《いくさ》に行くという人に他《ほか》に願《ねがい》があるものかね。」
「それは困りましたな。あすこまでは五里あります。今朝だと腕車《くるま》で駈《か》けて行ったんですが、とても逢わせないといいますから行こうという気もありませんでした。今ッからじゃ、もう時間がございません。三十分間、兵営までさえ大急《おおいそぎ》でございます。飛んだ長座をいたしました。」
 謂うことを聞きも果てず、叔母は少しく急《せ》き込みて、
「その言《こと》は聞いたけれど、女《むすめ》の身にもなって御覧、あんな田舎へ推込《おしこ》まれて、一年|越《ごし》外出《そとで》も出来ず、折があったらお前に逢いたい一心で、細々命を繋《つな》いでいるもの、顔も見せないで行かれちゃあ、それこそ彼女《あのこ》は死んでしまうよ。お前もあんまり察しがない。」
 と戎衣《じゅうい》を捉《とら》えて放たざるに、謙三郎は困《こう》じつつ、
「そうおっしゃるも無理ではございませんが、もう今から逢いますには、脱営しなければなりません。」
「は、脱営でも何でもおし。通が私ゃ可哀そうだから、よう、後生だから。」
 と片手に戎衣の袖を捉えて、片手に拝むに身もよもあらず、謙三郎は蒼《あお》くなりて、
「何、私の身はどうなろうと、名誉も何も構いませんが、それでは、それではどうも国民たる義務が欠けますから。」
 と誠心《まごころ》籠《こ》めたる強き声音《こわね》も、いかでか叔母の耳に入《い》るべき。ひたすら頭《こうべ》を打掉《うちふ》りて、

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