が例なりしなり。
今やなし。あらぬを知りつつ謙三郎は、日に幾回、夜《よ》に幾回、果敢《はか》なきこの児戯を繰返すことを禁じ得ざりき。
さてその頃は、征清《せいしん》の出師《すいし》ありし頃、折はあたかも予備後備に対する召集令の発表されし折なりし。
謙三郎もまた我国《わがくに》徴兵の令に因りて、予備兵の籍にありしかば、一週日以前既に一度《ひとたび》聯隊に入営せしが、その月その日の翌日《あくるひ》は、旅団戦地に発するとて、親戚《しんせき》父兄の心を察し、一日の出営を許されたるにぞ、渠は父母無き孤児《みなしご》の、他に繋累《けいるい》とてはあらざれども、児《こ》として幼少より養育されて、母とも思う叔母に会して、永き離別《わかれ》を惜《おし》まんため、朝来ここに来《きた》りおり、聞くこともはた謂《い》うことも、永き夏の日に尽きざるに、帰営の時刻迫りたれば、謙三郎は、ひしひしと、戎衣《じゅうい》を装い、まさに辞し去らんとして躊躇《ちゅうちょ》しつ。
書斎に品《もの》あり、衣兜《かくし》に容《い》るるを忘れたりとて既に玄関まで出《い》でたる身の、一人書斎に引返しつ。
叔母とその奴婢《どひ》の輩《やから》は、皆玄関に立併《たちなら》びて、いずれも面に愁色《しゅうしょく》あり。弾丸の中に行《ゆ》く人の、今にも来《きた》ると待ちけるが、五分を過ぎ、十分を経て、なお書斎より来らざるにぞ、謙三郎はいかにせしと、心々に思える折から、寂として広き家の、遥《はるか》奥の方《かた》よりおとずれきて、
「ツウチャン、ツウチャン。」
と鸚鵡の声、聞き馴れたる叔母のこの時のみ何思いけん色をかえて、急がわしく書斎に到れり。
謙三郎は琵琶に命じて、お通の名をば呼ばしめしが、来《きた》るべき人のあらざるに、いつもの事とはいいながら、あすは戦地に赴く身の、再び見、再び聞き得べき声にあらねば、意を決したる首途《かどで》にも、渠はそぞろに涙ぐみぬ。
時に椽側に跫音《あしおと》あり。女々しき風情を見られまじと、謙三郎の立ちたる時、叔母は早くも此方《こなた》に来りて、突然《いきなり》鳥籠の蓋《ふた》を開けつ。
驚き見る間に羽ばたき高く、琵琶は籠中《ろうちゅう》を逸し去れり。
「おや! 何をなさいます。」
と謙三郎はせわしく問いたり。叔母は此方《こなた》を見も返らで、琵琶の行方を瞻《みまも》りつつ、
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