。素直にこっちへござれッていに。」
 お通は肩を動かしぬ。
「お前、主人をどうするんだえ。ちっと出過ぎやしないかね。」
「主人も糸瓜《へちま》もあるものか、吾《おれ》は、何でも重隆様のいいつけ通りにきっと勤めりゃそれで可《い》いのだ。お前様《めえさま》が何と謂ったって耳にも入れるものじゃねえ。」
「邪険《じゃけん》も大抵にするものだよ。お前あんまりじゃないかね。」
 とお通は黒く艶《つやや》かな瞳をもって老夫の顔をじろりと見たり。伝内はビクともせず、
「邪険でも因業《いんごう》でも、吾、何にも構わねえだ。旦那様のおっしゃる通りきっと勤めりゃそれで可いのだ。」
 威をもって制することならずと見たる、お通は少しく気色を和らげ、
「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日《おととい》の晩はじめて門をお敲《たた》きなすってから、今夜でちょうど三晩の間、むこうの麻畑の中に隠れておいでなすって、めしあがるものといっちゃ、一粒の御飯もなし、内に居てさえひどいものを、ま、蚊《か》や蚋《ぶよ》でどんなだろうねえ。脱営をなすったッて。もう、お前も知ってる通り、今朝ッからどの位、おしらべが来たか知れないもの、おつかまりなさりゃそれッきりじゃあないか。何の、ちょっとぐらい顔を見せたからって、見たからって、お前、この夜中だもの、ね、お前この夜中だもの、旦那に知れッこはありゃしないよ。でもそれでも料簡《りょうけん》がならなけりゃお前でも可い、お前でも可いからね、実はあの隠れ忍んで、ようよう拵《こしら》えたこの召食事《あがるもの》をそっと届けて来ておくれ、よ、後生だよ。私に一目逢おうとってその位に辛抱遊ばす、それを私の身になっちゃあ、ま、どんなだろうとお思いだ。え、後生だからさ、もう、私ゃ居ても、起《た》っても、居られやしないよ。後生だからさ、ちょっと届けて来ておくれなね。」
 伝内はただ頭《こうべ》を掉《ふ》るのみ。
「何を謂わッしても駄目なこんだ。そりゃ、は、とても駄目でござる。こんなことがあろうと思わっしゃればこそ、旦那様が扶持《ふち》い着けて、お前様《めえさま》の番をさして置かっしゃるだ。」
 お通はいとも切なき声にて、
「さ、さ、そのことは聞えたけれど……ああ、何といって頼みようもない。一層お前、わ、私の眼を潰《つぶ》しておくれ、そうしたら顔を
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